
深井治美のロングプロフィール
はじめまして。深井治美(ふかい なおみ)と申します。
プロフィールをご覧いただき、誠にありがとうございます。
ここでは、私という一人の人間がどのように生きてきたのかを、少しでも興味を持って読んでいただけるように綴ってみようと思います。いつか直接お会いできたときに「そういえば、あのプロフィールでこんな話を読んだけど……」と酒の肴にでもしていただけたら、それだけでおかわり3杯いけちゃいます!
「好奇心」が人生の羅針盤
私の人生をざっと振り返ると、「好奇心を原動力に生きてきたなあ」という気がしています。特に興味が尽きなかったのは、人間そのもの。とにかく「人はなぜこう感じるんだろう」「どうしてこう行動するんだろう」という疑問が湧くたびに、自分を含め、周りの人々の言動や心の動きを観察するのが好きでした。
例えば私自身、ある出来事が起きたときに大きなショックを受けることもあれば、スッと受け流せるときもある。その違いはどこからくるのか、どういう瞬間にそう感じてしまうのか。そんな内面の仕組みに強く惹かれてきたのです。
幼少期の記憶と恵まれた環境
まずは、私の幼少期の環境についてお話しさせてください。歯科医院を営む両親、二人の妹、そして一匹の犬と一緒に、雪国の景色に映える真っ白な家で育ちました。リビングからドア1枚隔ててつながった診療室で毎日遅くまで患者さんのために仕事をする両親を、尊敬と少しの畏怖が混ざった感情で眺めていたことを覚えています。
そしてそんな忙しい両親に代わって、家政婦さんやスタッフの方たちが私たち姉妹を可愛がってくれました。まるで自分が家族の中心にいるような安心感を得られるありがたい日々で、今振り返っても、贅沢なほどの愛情を一身に受けていたんだなと感じます。
勉強面でも実に恵まれた環境でした。教育熱心な母は当たり前のように塾や家庭教師を手配し、必要であれば参考書や問題集も惜しみなく与えてくれました。さらに祖母は私が初孫ということもあり、目に入れても痛くないほどの可愛がりようだったと聞きます。おかげで勉強に対する苦手意識を持つ暇もなく、「期待に応えたい」という思いを強く持つようになりました。
一方で、長女ゆえのプレッシャーは常に私の心の中にありました。親戚から「男の子がいないならお姉ちゃんがお家を継がないとね」などと言われるたびに、自分には自由に将来を選ぶ余地がないかのような閉塞感を感じていました。
まだ子どもだった私には、それがどれほどの重圧となるのかを言葉で説明できなかったのですが、「自分が男の子だったら、こんなこと言われずに済んだかもしれない」と考えては、劣等感を抱くことも。幸せいっぱいの環境にいるはずなのに、心の奥底にわだかまりがあって、時には「もう何もかも終わりにしてしまいたい」と思うほど。
でも、そのときはまだ漠然とした「息苦しさ」を感じているだけで、その理由をはっきり言語化することはできていませんでした。そんな思いを抱えたまま、中学、高校へと進んでいきます。
思春期の迷いと「幸せ」への疑問
中学、高校と成長するにつれ、「恵まれた環境にいても、必ずしも幸せとは限らないのかもしれない」という思いがますます色濃くなっていきました。友人からは「いい家に住んでいて、家業もあって、何不自由なくて羨ましい」と言われることが多く、私自身も客観的に見れば「自分は恵まれている」とわかっていました。でも、私の内側では「いったい自分の気持ちはどこへ向かえばいいんだろう」というモヤモヤが消えないのです。
当時は部活動やテスト勉強など、それなりに忙しくしていたはずですが、常に心のどこかがぽっかり空いているような感覚はぬぐえませんでした。今思えば、いろいろな選択肢を「自分はどうしたいか」ではなく「こうするべきだ」という基準で選んでいたので、幸せになるための糸口が見つからなかったのも当然だったのだろうと思います。
進路を考えるときでも、親や周囲の期待を優先し、「だってそれが普通でしょう?」と自分を納得させていた気がします。そうした「べき思考」に縛られていると、どんなに環境が恵まれていても、自分の心は満たされないのだと今になってようやくわかるようになりました。
このままだと息苦しさが増すばかりではないか……そう考えるようになった私は、高校卒業後に「心理学」を学ぶために大学進学を決めました。自分の中のコントロールできない感情や「幸せって何だろう」という疑問の答えが、心理学を学べば見つかるかもしれないと淡い期待を抱いたのです。
大学での心理学と「生きた学び」
実際に大学の心理学科に進んでみると、思っていた以上に学問としての心理学は幅広く奥深い分野でした。フロイトやユングといった歴史的な理論から動物の行動学との比較研究、統計に基づいた実験手法など、多岐にわたるカリキュラムに圧倒されました。もちろん、それらの知識が人間理解の基礎を支えているのは分かるのですが、当時の私が求めていたのはもっと直接的な「人の心の機微」というか、「どうやったら幸せを感じられるのか」という実感に近いものだったのです。
ただ、大学に入ると同時に実家を離れ、一人暮らしを始めたことで「生きた心理学」に触れる機会が増えました。サークルの未来について連日連夜瓶ビール片手に語り合ったり、アルバイト先の友人が家族との関係に悩んでいると聞けばワンルームマンションで共同生活をしたり。そこには家族以外の人との「ディープな」人間関係がありました。
両親や祖母から期待され続けてきた私にとって、初めて「自分がどうしたいか」に焦点を当てられた時期でもあったと思います。友人たちが抱える悩みや葛藤を聞いたり、逆に私も自分の不安を打ち明けたりしながら朝まで語り合う。そんな経験を通じて、学問では説明しきれない「人間らしさ」や「感情の動き」を、肌で感じられるようになりました。人間を知るには、実際に人と向き合ってこそなのだと強く思ったのも、この頃です。
初めての仕事と「営業職」という選択
そうして大学を卒業後に就職のタイミングを迎えた私は、「人と直接触れ合う仕事こそが、自分の好奇心を満たしてくれる」という確信めいたものを感じ、迷わず営業職を選びました。たまたまブライダルギフトを取り扱っている会社の素敵な商品に惹かれ、入社を決めたのですが、ここでいきなり波乱の幕開けが待っていたのです。
なんと、配属された本社の「営業部」が、私が入社する直前にほぼ壊滅状態になっていたのです。もともと複数いた営業社員は相次いで退職し、私が入った頃には「新人の私ひとり」が宙ぶらりんの状態。右も左もわからないとはこのことだ、と実感する日々でした。
クレーム対応の電話がかかってきても驚いて思わず切ってしまうような有様で、「これで本当に大丈夫なんだろうか」と不安になったのを覚えています。
とはいえ自分も辞めてしまおうという気持ちが不思議と起こらなかったのは、「まだ何もやってないのに辞める理由もない」という無知ゆえの強さもあったのでしょう。またある意味では、そんな危機的な状況こそが私の好奇心に火をつけてくれたのかもしれません。
その後、他支店から新たに上司が応援にやってきてくれて、二人三脚で営業を再建していくことになります。そこで私が強く惹かれたのが、「営業のおもしろさ」でした。伝える言葉ひとつ、言い回しひとつで、相手の反応はガラリと変わるんだということを肌で感じ、まるでパズルを解くような興奮を覚えました。
ブライダルフェアに出展した際には、お客様の視線や表情を細かく観察し、「あ、この商品はもっと目立たせたほうがいい」「今の説明の仕方は伝わっていないかも」と考えながら、ディスプレイを何度も作り直します。式場スタッフの方々との連携も深まり、「こんなに試行錯誤をするのが、自分の性分に合っているんだな」と発見したのを覚えています。
結果として、本社とは別に営業部署として一つの事務所を構えるまでに数字は伸びていきました。ただ、不思議なことに一方で私の中では「次のステップに進みたい」という思いが強まっていたのです。結婚式という「ゴール地点」を華やかにサポートするのも素敵ですが、人間の変化が最も大きいのは、たぶんそこに至るまでの道のりなのではないか。そう考えるようになり、「結婚アドバイザー」の仕事に挑戦してみることを決意しました。
結婚アドバイザーとして得た学び
結婚アドバイザーの仕事は、今までの人生でもなかなか味わえない異色の体験の連続でした。何しろ初対面の方に「結婚観」を尋ねるのが仕事になるわけですから。結婚観には、育ってきた環境、仕事への取り組み方、人生観までが色濃く投影されています。そんな問いかけを通じて、初めてお会いする方の心の奥底に触れることができる。それは私にとってものすごく刺激的であり、やりがいのある時間でした。
特に印象深いのは、20代で婚活に励んでいたある女性会員さんです。最初は少し背伸びをした相手選びをしていたのか、紹介の数自体は多いのに、なかなか交際に結びつかない状況に悩んでいらっしゃいました。プロフィールも優等生っぽくまとめられ、彼女らしさがなかなか伝わりにくい内容でした。
そこで少しずつ修正し、等身大の飾らない気持ちを盛り込むようにしたところ、自然体の彼女に寄り添ってくれる男性と出会えたのです。満面の笑みで報告に来てくれた彼女の姿は、今でも鮮明に焼き付いています。
こうして、人それぞれの「結婚観の背景」を知る仕事を続けていくうちに、私の中では「人間はこんなにもバリエーション豊かなんだ」という驚きと、「だからこそ人生は面白いんだ」という納得感が大きくなっていきました。
「幸せネイティブ」な元夫との出会い
そんな日々のなか、私の人生をさらに大きく動かす出会いが訪れます。母と一緒に観劇を楽しんでいた流れで知り合った当時の夫でした。初めて会ったとき、「この人は、幸せをそのまま体現しているみたいだ」と驚きました。いわば「幸せネイティブ」のように見えた彼を間近で観察するうちに、「自分が幸せだと心から信じて疑わない」という姿勢が人の生き方をこんなにも左右するのか、という大きな気づきを得たのです。
両親の結婚生活の苦労を間近で見ていた分、自分の人生には結婚は必要ないと考えていた私ですが、この人となら結婚してみても面白いのかもしれないと感じ、一歩踏み出すことにしたのです。
人前に出る仕事をしていた彼から学んだ「人たらしの技術」。それは言葉選びや相手への心配りといった、ごくシンプルだけれど奥深いノウハウでした。さらに彼が座右の銘にしていた某少年漫画の主人公のセリフ「それはそれ、これはこれ」は、その後私自身の座右の銘にもなりました。
嫌なことがあっても、全部がダメになるわけじゃない。物事をしっかり区別して考えれば、少なくとも心の余裕は保ちやすくなる。これは離婚した後でも、私たちの間にしこりを残さずに済んだ大きな要因だと感じています。
夫婦という近い距離感で良好な関係を築けなくても、一人の友人としてなら分かり合える部分がたくさんある。その姿を息子に見せることは、家庭のギスギスした空気を味わうより、ずっと健全であるはずだと考えています。
また、少し生真面目な部分のある息子にとって、自由な生き方を貫く父親の姿を近くで見せられるのは、良い影響を与えてくれるはずだと感じています。
シングルマザーとしての日々と息子への想い
離婚後はシングルマザーとして、今では小学校高学年になった息子を育てています。コロナ禍とともに始まった小学校生活は、子どもにとっても大人にとっても不安要素が多く、息子は2年生の終わり頃から不登校を経験するようになりました。
正直なところ、私自身も世の中の急変に翻弄され、いつも落ち着いた気持ちで息子に寄り添えていたわけではありません。あのとき、もっと話を聞いてあげられていたら、もっと一緒に毎日全力で遊んであげられていたら……と、今でも後悔する瞬間があります。
しかし、その経験を通じて、「息子の人生のペースは息子自身が決めていいのだ」という思いを強く抱くようになりました。私に似て頑固なところがありつつも、洞察力が鋭く、優しく気遣いのできる息子。その良さを伸ばすには、無理やり社会の「正解」に合わせるのではなく、納得しながら一歩ずつ前に進めるような環境を整えてあげることが大切なんだろうな、と感じています。
ありがたいことに、最近は息子を理解し、支えてくれる大人が周りに少しずつ増えてきました。学校の先生方はもちろん、フリースクールの先生や親しい友人が味方になってくれることが何よりの支えになっています。
母親である私が、その先頭をしっかり歩んでいけるように、これからも彼を一番の「観察対象」として見つめ、いっしょに成長していきたいと思います。
今がいちばん幸せ。そしてこれからも…
ここまで読んでいただいた方はお気づきかもしれませんが、私は元来「悩み多き人間」だったはずなのに、いつしか「今が一番幸せだな」と心から思えるようになりました。もちろん、問題や課題はまだまだ山積み。うまくいかなくて悔しい思いをしたり、自分の不甲斐なさにうんざりすることも多々あります。
でも少しずつ、それすらも含めて「人生のバリエーションが豊かなのはむしろ面白い」と思えるようになってきたのです。
幸せになる方法を追い求めていたら、いつのまにか目の前にそれがあった。それも元からそこにあったような顔をして。まるで歌詞の一節のようですが、もしかしたら多くの人がそんなふうに感じる瞬間を持っているのではないでしょうか。
これから先、私がどんな道を歩んでいくのかはまだわかりませんが、きっとまた新たな学びや出会いを通じて、「今が最高」と感じる瞬間を更新していくだろうと思います。そして、その物語の続きをともにつくってくれるのが、これから出会うあなたかもしれません。
最後に
そして、これからの人生で私はまた何度も「今が一番幸せ」と言うのだろうか、それとも新たな学びによってまったく別の景色を見るのだろうか。きっとこれから出会うあなたとの時間が、私の物語を更新していく大切なピースになるのだと思います。
皆さんの歩まれてきた物語をお聞きするのが今から楽しみです。お互いの人生を持ち寄って、これからともに物語の続きを作っていけたら、それこそが私にとっての最高のワクワクであり、後半戦を迎える人生の最大の喜びとなるはずです。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。もし少しでもご興味を持っていただけましたら、お気軽に「一杯どう?」と声をかけていただけると嬉しいです。