海辺のカフカ / 卒業論文のこと その4

 その4では、ラカン的な無意識の構造と作品をラカン的な解釈で読むことができる点を述べる。

フロイト先生は乳児の初期段階について、乳児期の無意識は母親と自他未分化の状態にあると考えた。ただ泣いて訴えるだけで母親が母乳や排せつ物の処理をしてくれる。自分の不快の元を意思疎通無しに取り除いてくれる。
まるで自分と母が一体の存在であるかのように考えている。
しかし次第に成長するにつれ、母親は子供に自分の意思を言葉にして伝えるようにしつけをする。
コミュニケーションを求めるということは自己と他者は別の存在だと認識させるということである。この段階で子供には自分と母とが別の存在だという意識が生まれることになる。これが自我の発生の部分だという。

ラカンはフロイトの無意識観を言語の他者性や線的な構造を持つ点において発展させた。
ラカンの鏡像段階という乳幼児の主体形成についての考え方では、乳児は鏡に映った自分の像を自己と同一化させる過程で自我の形成が行われると考えた。
つまり、鏡=他者の像を自己と同一とみなすことが自我形成の過程である。
主体がその主体性を見出すとき、そこには常に他者がいる。
またコミュニケーションをするために獲得する言語についても同様のことが言える。つまり自身が発している言語は常に他者が語らっているイメージだ。
他者の語らいのイメージ。
無意識が言語的な構造を持つということは無意識もまた他者の語らいのイメージである。
そして言語による構造化は無意識を線的な構造にすることであり、この線的な構造は時間の中に生まれる線的構造と考えた。ラカンは精神分析の手法を体系化する中でこれらの構造に注目した。

ラカンの研究者ではないので認識に誤りがあればご指摘いただきたいです。
考えを改めるためにご意見をいただきたい所存ですが
ひとまずざっくり観のラカンの無意識観の説明を行った。
また必要な考え方があれば適宜説明を施そうと思う。
次にカフカの物語をラカン的な観点で読める要素を挙げる。

四二章で図書館の館長の佐伯が自身の恋人との関係についてナカタに語った部分の引用

私たちは完全な円の中に生きていました。すべてはその円の中で完結していました。しかしもちろんそんなことはいつまでも続きません。私たちは大人になり、時代は移ろうとしていました。円はあちこちでほころびて外のものが楽園の内に入り込み、内側のものが外に出ていこうとしていました。

この感覚は自他未分化の乳児が母とは別の存在として突き放される感覚を思わせる。

またカフカや佐伯が訪れる森の「奥」の世界は、乳児のまだ自他未分化の無意識の構造を示していると読むことができる
・活字が全く存在しない = 言語が存在しない
・名前は必要ではない = 自己と他者を分ける必要がない
・必要であればすぐそこにある = 求めれば与えられる
・時間というのはそれほど重要ではない = 無意識が言語的構造ではない
などの特徴がある。
森の奥に入っていくということは幼児退行的な方法で問題と対峙する
ということを示している

ナカタはカフカの章と交互に進んでいくが、
彼はカフカの無意識の部分を担っていると考える。
彼はカフカの代わりに父親殺しを行い、カフカが森の奥に入るための入り口の石を開く役割を担っている。
また彼は知的障がいを持っていて、文字の読み書きができない。
これらは乳児期の状態と対応していると読むことができる。
またその対としてカラスと呼ばれる少年は言語を獲得した後の無意識の象徴として描かれていると考えている。カフカの意思決定に対しての助言や確認を行ってくれる存在。まさに他者の語らいのイメージだと言えるだろう。

その他のラカン的な観点で読むことの妥当性については、物語解釈の中で適宜行うこととする。

以上でカフカの物語をラカン的な無意識観で読むことの妥当性を述べた。次章その5では、カフカの物語を外部のシステムとの戦いとして読む妥当性とその戦いが外部のシステム、とりわけインターネットをはじめとしたサイバネティックな空間として想定することのについて述べていく。

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