「恩師と呼ばれたい教師」たちが高校生の成長を踏みにじる(1)
担任としても部活動顧問としても熱心でまじめで意欲的で、生徒や保護者からも慕われる「いい先生」が、日本の高等学校をダメにしている・・・
そう言ったら怒られるだろうか。
「いい先生」の全てがダメというわけではない。ただ、「いい先生」と言われている高校教師のかなりの割合が「恩師と呼ばれたい教師」である。彼らは「生徒のため」と口癖のように言うが、本当は、生徒や保護者から感謝され卒業後も「恩師」と呼ばれ、その結果周囲から認められることで、自らの承認欲求と自尊心を満足させるために教師をしている。彼らは世間知らずな高校生を洗脳し、彼らの時間とエネルギーと人生を自分の承認欲求のために貪っている。
これは、地方のごく平均的な公立高校で教員として働いてきた私が見聞してきたことをもとに考えた、高校教育の課題について私見を述べていく文章である。
「恩師と呼ばれたい教師」は一見、生徒思いでまじめで熱心な「いい先生」に見える。だが、その弊害は大きい。
たとえば「恩師と呼ばれたい教師」は、高校生にとって最も大事な進路指導で生徒を囲い込もうとする。自分の担任するクラスの生徒が、自分以外の教師に相談した結果、進路について深く考えるようになったり、志望理由書の内容が良くなったりすると、彼らは不機嫌になる。なかにはその生徒に「担任の俺を無視するなら俺はもうお前の面倒は見ない。勝手にしろ」と怒ったり、助言した教員に「俺のクラスの生徒に勝手な指導をするな」と怒鳴り込む者もいる(さすがに最近はあからさまにそういう行動を取る人は減ったが、陰口や嫌みを言う人はまだ多い)。
彼らにとって担任している生徒は、自分が周囲に誇るための「作品」だからである。「作品」の質が良くなってもそれが自分の功績でないと、誇ることが出来ない。なにより、生徒や保護者からの感謝や尊敬を独占できない。だから、生徒を囲い込み、他の教師が指導する場合でもあくまで「担任の自分が○○先生に頼んでやってもらった」という形にしたがる。そしてそれを臆面も無く生徒や保護者にも言う。すべては担任である自分のおかげなのだと思わせるためである。
こうして「恩師と呼ばれたい教師」の、経験と勘と思い込みに支配された「進路指導」で可能性を潰されたり人生を狂わされた高校生を何人も見てきた。それを止められなかった後悔は今でも私をさいなんでいる。(「恩師と呼ばれたい教師」の大半は、視野が狭く、自ら学ぶということをしない。自分や自分と同類の同業者の経験を頼りにして仕事をする。)
恐ろしいのは、この「恩師と呼ばれたい教師」たちの大部分がそのことに無自覚であることだ。彼らは本気で自分は生徒達のために頑張っていると信じている。だから、彼らは自分のやり方を批判されると激しく反発し怒り狂う。自分は正しいと信じているので自分を客観視することが出来ない。(自分を客観視できないという時点で教師失格なのだが)
「恩師と呼ばれたい教師」の弊害は、世の人々が考えるよりはるかに大きい。なぜなら、「恩師と呼ばれたい教師」は、自分の承認欲求を満たすためなら生徒の成長や幸福を平気で妨げ踏み潰すからだ。それも無自覚のままに。
そして洗脳された高校生もその被害に気づかないまま生きていく。卒業後も、自分の成長と幸福を妨げた「恩師」に感謝し、刷り込まれた価値観のまま生きていく。だからその影響は高校内にとどまらず、社会全体に広がっていく。
日本の高等学校の抱えている問題の多くに「恩師と呼ばれたい教師」たちの無自覚な承認欲求と洗脳教育が関わっていると、私は考えている。
次回は「恩師と呼ばれたい教師」の最も大きな弊害について考えを述べたいと思う。