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「絵心のなさ」についての考察

みなさん、こんにちは。Naseka です。
私は 哲学者・書評家・エッセイスト として、
自らを定義しています。

私には絵心がない

…というのは、ことあるごとに
嫌というほど実感してきたし、
過去には note でも書いたこともある。

ちょっとやそっとで
矯正できそうな気がしないし、
人生における優先度も
それほど高くないものだから
改善することは半ば諦めている。

だが、せめて
何故なにゆえこんなにも絵心がないのか」
という理由くらいは
明らかにして死にたいと思っている。

…と、そんなことを心の片隅に抱いていたら、
ふと そのヒントを思い浮かんだ。

今回は そんな話。


私はイメージが苦手

単刀直入に言うと、そのヒントとは
「自分には完成後のイメージができていない」
ということである。

私が自身について
「絵心がない」「センスがない」
と痛感するのは、
なにより作った画像を
(評価的な意味で)見たときである。

「『なんか』違うんだよなぁー…」

自己評価で つぶやきたくなるセリフ No.1 がこれ。
むしろ、心の中で
つぶやかなかったことがないくらい。

辛うじて自信を持って描けるものと言えば、
ドラクエのスライムくらいか。
(小学生のときにゲームにハマって、
 しこたま書いた)

スライム と それ以外 では、
いったい何が違っているのか。

改めて熟考したわけでもないのだが、
ふと閃いたのだ。

「完成後の姿をイメージできてない」

「コレジャナイ」と思うものを生み出すとき、
私は決まって
完成後のイメージを持てていない。

一方、スライムは
脳内に明確なイメージを持っているから
仮に下手に描いてしまっても
ミスに気付いて修正ができる。

おそらく、これは真理を突いている気がする。
なぜなら、他にも思い当たるフシがあるからだ。

下手の横好きの将棋でも

今は めっきり指すことがなくなったが、
一時期は将棋を指していた。

話題作りのために段持ちにはなったが、
段位の割には私は実戦に強くない。
所謂「観る将」の延長みたいなものだったし。

それは置いておくとして、
私なりに自分の将棋が弱い理由は自覚している。

将棋の一局の流れは、大きく
「序盤(駒組みの段階)」
「中盤(戦いが起きる)」
「終盤(詰むや詰まざるや)」

と分けられるのだが、私はこの中の
「中盤」がすこぶる苦手である。

より詳細にみると「中盤の入り口」が苦手。
将棋用語でいうところの
「仕掛け」のあたりである。

自分なりに行き着いた結論としては、
「その将棋がどのような戦い・流れになるか
 先のイメージができていないのが原因」
ということだった。

将棋において
これを言ってしまったら終わりなのだが、
私には「先をイメージする能力」が
著しく不足しているのだ。

故に いくら手筋を勉強したところで、
実戦ではその手筋を
どう活かせばよいのかが分からない。

ある瞬間に、この将棋の話と絵心の話が
私の中で結びついたのだ。

絵心のない私が
偉そうにいうのも憚られるが、
「絵を描く」という行為には
目指す姿完成形のイメージに向かっていく」
というアプローチが大切なのではなかろうか。

もちろん場合によっては、
「行き先を決めずに、思うがままに」
筆を走らせることもあるのだろうが…

完成後のイメージを持っていないから
「『なんか』違うんだよなぁー…」
『なんか』が『なんか』のままなのだ。

これが分かったところで、
改善できるかどうかは また別の話。

だが、ひとつ自分の中の疑問が解けた。
これで死ぬときの悔いが
ひとつ少なくなりそうである。
(寿命的には まだ数十年先の話であるが)

お読みいただき、ありがとうございました。

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