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マンガは令和の哲学書!

みなさん、こんにちは。Naseka です。
私は 哲学者・書評家・エッセイスト として、
自らを定義しています。

いきなりだが、
みなさんは「哲学」と聞いて
いったい どんなことを思い浮かべるだろうか?

・面倒くさい
・とっつきにくい
・自分には関係ない

そもそも「哲学」にも様々な定義があるので、
一概に言われても 難しく感じるかもしれない。

だが、最も広義で 最もシンプルな定義でいえば
「哲学」とは「知を愛する」ということ。

そして私流に表現すれば、
「知を愛する」ということは
「考える」ということ。

「人間は考える葦である」とは
有名な言葉だが、生きている限り
「何も考えずに生きる」という人間は
まず存在しないであろう。
(比喩的に言われることはあるにせよ)

すなわち 人間が生きている限り
意識するにせよ 無意識にせよ、
「哲学とは 常に誰しもの身近にあるもの」
だと私は考えている。


哲学のアプローチ

さて、そんな人間に不可欠な哲学と
どのように向き合っていくべきか。

やはり人間、考える上では
題材がある方が捗るもの。
というより、「考える」ためには
「○○について」という題材が不可欠である。

既に自分の中に題材があるのならば、
「スキマ時間を見つけては思索にふける」
というのがオススメである。

考えることは 脳みそひとつあればできるし、
スマホのバッテリー残量に悩まされることもない。
そもそも スマホを見なくてもいいから、
目の休息やデジタルデトックスにも最適である。

一方、哲学には もうひとつのアプローチがある。
それは「本を読むことで学びを得る」ことである。

これまでの常識からいえば
「哲学書を読んで考える」というものだ。

だが 一般的に哲学書は難解だし、
とっつきにくい専門用語や概念が多く出てきて、
自分の中で消化するのに時間がかかる。

活字だけの哲学書だと、
並んでいる文字を取り込んだあと
自分の中でその意味するところを再構築し、
それに対する自分の意見や考えを
整理しなければならない。

これはこれで とても高尚なプロセスなのだが、
いかんせん不慣れな人には
タイパ(タイムパフォーマンス)が悪い。
場合によっては、そのプロセスの途中で
嫌になって投げ出してしまうこともあるだろう。

令和は「タイパ」の時代

少しだけ話題を変える。

2019年から、日本の元号は「令和」となった。

60年以上続いた「昭和」は
江戸から明治、大正と比べれば
工業化や機械化は進んだとはいえ、
現代から見れば まだまだアナログな時代だった。

その後 30年以上続いた「平成」で、
パソコンやスマートフォンが大幅に普及し、
もはや デジタルが特別ではなくなった状態で
突入したのが「令和」の時代。

この先 令和の世が 何年続くのかは知らぬが、
現時点で 私が令和を表現するなら
ずばり「タイパ」の時代 だと思う。

今や Wi-Fi も GPS も
個人が利益を享受するのは当たり前、
世界中 どこにいても
何らかのネットワークにつながっている。

デジタル技術の発展が進んだ結果
個人が接する情報量は膨大となり、
その情報を処理するために
近年 頻繁に口にされている言葉が
「タイパ」である。

個人的には
「何でもかんでも タイパにこだわる」
というのは賛成しかねるのだが、
さりとて 世の流れとしては間違いなく
「タイパ」に重きを置かれる時代になっている。

哲学 と タイパ

ここで「哲学」に話題を戻そう。

上で述べたように、
哲学には主に2つのアプローチがある。
「自分の中で思索をする」のと
「哲学書を読んで考える」だ。

このうち前者は、非常にタイパが良い。
なにしろ 脳みそがある限り 場所に囚われず
ありとあらゆるスキマ時間を活用できるからだ。

電車に乗っている間でもいいし、
注文した料理が出てくるのを
待っている時間でもいい。
(乗り物の運転時は止めておいた方がよい)

しかし、自分の中で哲学をするというのは
馴染みのない者にとっては そう簡単ではない。
だからこそ、哲学書というものは
いつの時代も一定数 売れるのだ。

とはいうものの 前述のように
一般的な哲学書は 素人には難解だから、
考えを整理して自身の肚に落とし込むのに
時間がかかってしまいがちなのは否めない。

そう、この「タイパ」の時代に
難解な哲学書を読んで
ウンウン考えるというのは、
まさに「タイパが悪い」と
いえるのではないだろうか。
(個人的には嫌いではないし、
 そういうのを好む人を否定する気もないが)

では この「タイパ至上主義」ともいえる
令和の時代、
人間に不可欠な哲学と
どのように向き合っていくべきか。

本以外のものから考える題材を
拾ってこられる人であれば
問題にはならないのだが、
そもそも そういう人というのは
他人(私のような)に
とやかく言われなくても
既に哲学を実践しているのだ。

つまり 令和の世で
哲学の裾野を広げようと考えると、
タイパの良い哲学の題材が必要となるだろう。

マンガの持つ長所とエネルギー

気軽に、楽しく

私が「哲学書はタイパが悪い」といった理由、
それは「難解で読みづらい」というものだった。

つまり換言すれば、
「読みやすい哲学書」があれば
タイパ良く哲学に触れることができる。
そして、私はそれにピッタリな本を見つけたのだ。

それが「マンガ」である。

 

みなさんも、これまでの人生の中で
大好きなマンガというものが
ひとつやふたつ あるのではないだろうか。

それは子どもの頃に出会った作品かもしれないし、
今 まさに流行している作品かもしれない。

読んできたマンガの数の多寡は
個人差も大きいだろうが、
「誰が何と言おうと 私はこれが大好き!」
という作品には、
そう考えるだけの理由があるはずである。

登場人物の生き方や考え方だったり、
印象に残るセリフや場面かもしれない。
もちろん、それらがひとつとも限らない。

俗に言うところの
「心に刺さる」ものがあるからこそ、
あなたにとって そのマンガが
特別な作品となっているのだろう。

マンガの大きな特徴といえば、
やはり「絵(画)がある」こと。

教科書 や 小説 と異なり、
セリフという文字とあわせて絵があることで、
子どもから大人まで
気軽に 楽しく 読むことができる。

この「気軽に」「楽しく」読めることこそ、
マンガの最大の長所なのである。

なぜ心に刺さるのか

そして「心に刺さる」作品というのは、
自分の感情を動かすほどの
大きなエネルギーが秘められている。

同じマンガの同じシーンを読んでも、
刺さる人・刺さらない人がいる。

ということは そのマンガが
あなたの心に刺さったということは、
あなたにとって大事な何かが そこにある。

それが何かを考えることは、
立派な「哲学」なのである。

私はマンガオタクというほどの読書量はないが、
これまで読んできた作品の中には、
強いメッセージや哲学を感じるものも少なくない。

「このマンガの ここが好き!」というとき、
それらは私にとって「哲学書」といっても
何ら差し支えないものばかりだ。

「何で」より「何を」

令和は「タイパ」の時代だ。

スポーツの分野でも 職人の世界でも、以前は
「自分で試行錯誤して習得してこそ一人前」
という風潮が強かったが、今では
「YouTube や ネットで教わる方がタイパが良い」
という認識が広まってきた。

要は
「何で(手段)学ぶか」ではなく
「何を(目的)学ぶか」にフォーカスする時代

なのである。

そして それは「哲学」においても例外ではない。

難解な専門書を読むのが尊いとか、
マンガを読むのが低俗だとか、
そんな考えは過去の遺物だ。

大切なのは「何を読むか」ではなく、
読むことで「何を考えるのか(思うのか)」である。

活字のみの本に比べると、
「マンガだったら 抵抗なく読める」
という人は多いことだろう。

それならば 気軽に 楽しく 読めて
心に刺さるマンガで「哲学」を考えるのが、
最も人生を豊かにしてくれるのではないだろうか。

そんなわけで これから私は
「令和の哲学」のひとつの柱として
「マンガは 令和の哲学書である」
と提唱していきたい。

次回からは、実際に読んだマンガの中から
私が見出した哲学を紹介していく。

-  第一章 『 【推しの子】 』  -
              乞うご期待

 

お読みいただき、ありがとうございました。

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