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自意識過剰とハズカシサ

 ある時、車に乗っていたら信号にひっかかった。左右は民家である。
 で、たまたま信号に引っかかったときにちょうど私の右側にあたるお宅へ、たくさんの梅の実と氷砂糖とホワイトリカーと大きな保存容器を持ったひとが入って行くのが見えた。

 あ、梅酒を作るのね。

 その家の表札には「佐藤」とあった。言うまでもなく、私は全然知らないお宅である。

 以来、そこを通るたびに、「佐藤さんとこ、梅酒うまいこと出来たかなぁ」とか、「佐藤さんとこの梅酒、そろそろちゃうかな?」と、一人で勝手に気にするようになった。

 私はこれを普通に微笑ましい気持ちで眺めていたわけだが、逆だったら、つまり私が見られている側だったら、かなりイヤだろうなと思う。

 それはつまり、スーパーで牛肉とニンジンと玉ねぎとジャガイモとカレールーを一度に買うのがイヤだということである。

 レジのひとに、「お、カレー作るん?」みたいなことを思われるのがハズカシイ!

 それの何がハズカシイのか自分でも説明出来ないのだがとにかくハズカシイのだ。

 特に他のものは買わずにそれだけの場合、ハズカシサの程度は爆上がりする。

「カレー作るん?」に留まらず、「今日の夕飯カレーなんやあ」と、想像が具体的になるのがハズカシイ!!

 そんなことを考えながらの会計は、もはや屈辱のひとときである。

 レジのひとの読み(推測)は、当たっているのであるから反論の余地もなし。

 そして買い物から帰って、鍋でカレーをコトコトやってるときにふと、「レジのひと、今頃私がカレー作ってるの想像してるんやろうなあ……」と思うと、もうその場に穴掘って隠れたくなるくらいにハズカシイ。

 だからそれの何がハズカシイのかワカラナイけれど、たぶん、「手の内」が晒されてしまったみたいなことに対する敗北感のようなものではないかと自分では分析している。

 単なる通りすがりの人程度の関わりしかないひとにも日常があって、カレーを食べたりするのね、みたいな、見ず知らずの間柄なのに、急に所帯じみたリアリティを持って迫る、迫ってこられる、という力が、スーパーのカゴの中身にはあって、それが私のハズカシサの元なのではないかと思う。

 佐藤さんちの梅酒も然りで、佐藤さんとこのご主人(推定)がもし、梅の実とホワイトリカーと氷砂糖などではなく、保存容器と木工用ボンドのような組み合わせを手にしていたのだとしたら、佐藤家の神秘性はベールに包まれたまま保守出来たものと思われる。

 だからそれの何が悪いのかという話であるが。
 大きなお世話なのも、自意識過剰なのも本当は分かってるんだけどね。ハズカシイんです。
 よって、出前とか、デリバリーとかも苦手だわ。

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