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【連載ミステリ小説】 つぼ天狗 #10

seiichi

7月10日、朝餉もそこそこに毎朝日課にしている庭木に水をやろうと、ウキウキして柄杓を手にした。

庭に充分水を撒き、土間玄関をでた。板塀沿いに並べられた鉢植えにも順に水をやっていく。

淡碧の空に雲がもくもくと湧いている。井戸の水まで青く澄んでいるかのようであった。梅雨が明けいきなり光量が増えた。

まばゆい朝だった。

!?

玄関を出てすぐのところに明らかに異質なものが置かれてあった。

おや、なんだろうとそれを拾った。

どこの家にも一着はありそうな結城紬の小袖だった。さっきまで誰かが着ていたようで匂い立つようで生温かい。

両の袖山を広げてみる。豆柄茶の地の上前の胸元にベッタリと白粉(おしろい)と口紅か。銕胤の小袖?

ピンとくるとともに心の中で癇性を爆発させた。

あのサンチンが。

女だてらの握力で怒りにまかせて握った。

ふと衿下をみるとドス黒い血糊が乾涸びている。

一気に不安になって、屋敷に飛びこんだ。

父と寅吉は、書斎で勉強していた。

怒髪天のように髪を逆立てて怒り、「おい!  寅吉!」と声を張った。

文机を挟んで篤胤と向かい合って座していた父と寅吉は、不意を衝かれてハッとした表情で驚いて千枝を仰いだ。

「これは誰の?」

千枝は小袖を差し出した。

寅吉はいきなりそう言われても、要領がつかめない。

「え、義兄さんのものですよ・・・・・・」

しどろもどろになる。

「やっぱり」

千枝は爪を噛んで深々と畳を見つめた。

「どうしたんだい」

篤胤が尋ねた。

「性悪ですよ、不倫ですこれは」

袖山を広げて千枝は、玄関前に置かれてあったことを伝え、父に証拠とおぼしき箇所を見せた。

父に訴えるところがなんとも弱々しいが、銕胤の両親は国許の四国でとっくに他界していた。

「待て待て、銕胤がそんなことするわけないだろ。毎日一緒でそんなこともわからんのか・・・・・・そんなことするかなあ」

篤胤はまるで信じない。

銕胤は、如才なく好かれやすい性分だから、どこかの異性にも火花がついたように好かれてしまったのかもしれない。

「寅吉は昨夜何してた」

「何してたって、一晩ぐっすり白河夜舟ですよ」

銕胤は一昨日から木更津の豪農の門人宅へ講演旅行に出ていた。

「そうだな、男の浮気は堂々と遊郭、岡場所なんてあるが、女は姦通即死罪だからな、不公平だ」

篤胤は千枝の肩を持つ親のこころも当然もっている。

「しかしまあ、婿のくせによくそんな大それたことできたなあ。それより血がついていることの方が問題だし不審だよ」

「確かにこれは、お義兄さんが浮気をしでかしてバカだというより、相手の女が姉さんを挑発するために工作したように見えるなあ」

銕胤にものを投げつけたい気持ちになった。

「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなよこぐし)の切られ与三郎のごとしだな」

そう言って篤胤は準礼装の江戸小紋の袂(たもと)に拳を突っこんだ。

日本橋横山町の鼈甲問屋の若旦那与三郎が遊び呆けて木更津に勘当される。浜辺でヤクザの親分、赤馬源左衛門の妾と恋に落ちる。しかし、子分にバラされて与三郎の顔が良すぎるからいけないのだ、と顔と手足を34ヶ所刀で斬られて逃げるという話だ。

講談や歌舞伎の人気の演目のひとつだ。

父は若い時分、市川團十郎の家に住み込みで三助をやっていたことがある。切られ与三郎役は歴代の團十郎が演ずることになっている。

「まさか、相手がヤクザの妾って言うんですか」

「そうは言わないけど、尋常じゃないだろ」

明らかに篤胤も不興を買っていて最悪を見越したような不安げな表情だった。

死んでいるかもしれない。

死なれてたまるか・・・・・・。

3人とも考えていることは同じだった。

早く銕胤が帰ってくること。身の安全が保障されること。それを願った。


それから夕刻まで気もそぞろだった。

実際に銕胤がなんの異状もなく素知らぬ顔で帰った様子を見て3人は安心した。

千枝の心は緩んだ。

この人を信用していいような気がしてくる。

帰ってきてすぐ荷解きにかかる。しかし千枝は気丈に、銕胤の脇に座して小袖を広げ、「あんた、これなに」と小言のように訊いた。

「唐突になんだい。帰ってきたそばから。腹も減ってることだし」

銕胤は忙しく面倒な仕事をこなしてきたのに、仔犬に餌をねだられたようでほとほと疲れきって機嫌悪く言った。

「これ!」

千枝も引かない。

「え?」

銕胤は床の上の小袖を暫し見つめる。時がかたまる。

「ああ、これは寅吉にやったものだよ。そうだったよな、寅吉?」

銕胤は顔を上げて寅吉を向いた。

「あ、ああ、そうだった。義兄さんは体が大きいから仕立て直してから着ようと言ってたんだっけ・・・・・・」

「それで直したの?」

「いや、これ、オレが着ようと思ったんだけど、この間の津山藩士の丸戸が譲ってほしいって言うもんだから譲ったものだよ。覚えてる。丸戸はこの家まで取りに来たから」

「・・・・・・」

実物で確かめると、寸法は寅吉に下げる前と同じだそうだ。ということは、最初から直してないことになる。

千枝はなかなか、銕胤が情婦(おんな)かなんかと会ったんでしょ、とは言いづらかった。

銕胤は、白粉や紅に気づかなかった。

何気ない会話のはずなのに相変わらず険のある目つきで仁王立ちしている千枝がやけに物騒でチクチクするようで、銕胤は不気味な顔をしていた。

千枝を振り切って着物と下着を入れる盥(たらい)に逃げるように汚れた衣類を出しにいった。

口ごもっている千枝を忖度して寅吉が代わって言ってやった。

「義兄さん、なにか気づかない?  白粉に紅だぜ?」

寅吉がチクリと言った。

銕胤はパッと小袖を見るが、「知らない。知らない。オレはそんなことしないよ。大体、ついさっきまで江戸の外にいたんだぜ、調べりゃわかるよ」

銕胤は毅然として言った。

言ってることに偽りはなさそうだ。チョキチョキした挙動不審でもない。

ではなんなのだ。

急に正気になれた。

挑発?  いや、そうではないだろう。

銕胤はそんな気も知らず、「茶漬けと漬物」とだけ言って千枝に用意させると酒も呑まずさっさと寝てしまった。

千枝はさすがに夫のようにケロッとはできず、寝床に入っても考え込んでいた。

憶測ではいけない。

feit だ。事実に基づいて判断しなくては・・・・・・。

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