
【連載ミステリ小説】 つぼ天狗 #15
この間の榕庵先生の奥さんの誕生会は、大層な賑々しさで座は埋めつくされた、和気藹々とねんごろな雰囲気に、というのはもちろん皮肉混じりの冗談だ。
ほんとうは、丸戸のせいで殺伐としたから騒ぎとなりすっかり座は白けてしまった。
今日出席しているのは、花井、望月、丸戸、徳山だった。千枝は出文机の端っこに丸戸からわざと離れて座り気を取り直して和文英訳をしていた。
千枝も写生の仕事だけでなく榕庵先生から英語の薫陶も受けていた。
出席者全員で声をだす素読は終わり、思い思い字引を持ち寄り英訳、蘭訳、和訳の時間になった。
無口で作業していたが、ついつい口が滑らかになる。
「千枝さん、寅吉さん家空けてるって?」
望月が手を動かしながら心配そうに言ってくれた。
「そうなんですよ。でも、これで目が醒めてくれました。寅吉に似合うお嬢さんじゃあないでしょ? 花は折りたし梢は高しでしょ?」
座の一同はドっと笑った。
「それにしても渡部の奴、郷里に帰って彦根藩に雇ってもらえたって?」
花井は津山藩のリーダー格の望月に訊いた。花井は蘭文英訳をしていた。
「そうなんですよ。なんでも医学をやるのに金がかかるからと」
「よく名門の彦根藩に雇ってもらえたな、このご時世。驚きだよ」
「渡部の家は尼崎で黒鍬(くろくわ:土木作業員)を使って土木普請を指揮する郷士(ごうし)の家系だそうで、彦根藩にその技術を買われたのでしょう。あり得る話です」
「ほお、元来、近江と土木とはなにか関わりがあるのかいね・・・・・・」
花井は独りごちた。
「あのな、淡海(琵琶湖)の東は湖東といって麻農業が盛んだ。麻は水辺の湿地でよく育つからな。ところが今はみんな高級志向だろ? 絹織物に押されておるのだよ」
榕庵が口を挟んだ。
「知ってます。阿蘭陀(オランダ)が日本から大量に生糸を買っていくのを。これから日本は生糸の時代だ」
花井が応答した。
「彦根藩は危機を感じていて、新田開発に力を入れようとしてるのさ」
「じゃああれか、田んぼや池を掘って岩か木で仕切ったり泥にまみれて田んぼに鯉や鮒(フナ)を放つ仕事か、大変なもんだ」
花井は大袈裟に両手を広げ幾分バカにするように失笑した。
「こら! そういう突き放した言い方があるか。なかなかできない仕事なのだぞ。工楽松右衛門(くらくまつえもん)さんを知っとるか?」
榕庵が喝破すると花井はハッと雷に打たれたような情けない表情になった。
「蝦夷地の国後島の護岸工事で使う石釣船を発明されたお方だ。川底、海底の土砂を浚渫(しゅんせつ)するのはそれまでなかなかできなかったのだ」
「すいません。確かに日本の邦のために尽くした立派な先人です。渡部くんも同様だと思われます」
花井は素直に詫びた。
「湖の底に大きな岩があったら人力で無理なとき取り除くのをどうすると思う?」
「考えてもみませんでした」
徳山がハッとして顔をあげた。
「工楽さんの考えた板鋤簾で滑車を使うのだよ。綱(つな)を絡めて、テコの原理で」
「はあ、テコの原理・・・・・・算術ですか。こりゃ医学よりよっぽど難しい世界だな」
花井が話しをまとめた。
「いやいや、医学も畢竟、算術だよ」
榕庵が言った。
千枝から丸戸の表情が曇ったかのように一瞬見えた。
「丸戸がね、煙草やめてくれたんですよ、な、丸戸」
徳山が嬉しそうに隣りの丸戸の肩を叩いた。もちろん徳山ははじめから煙草など吸わない。
「なに、この世に煙草をやめられる人がいるのか?」
花井がまたしゃしゃり出る。
「おい、いいのか。珍しく平田さん来てるぞ、渡さなくて」
徳山は丸戸の横腹を肘でつついた。
丸戸は黙って和訳に専心していたが、あっと何かに気づいたようで顔をあげフーっと息を深く吐いた。そして、辺りを見渡し千枝を見つけ目が合うと、えへへと頭をかいて恥ずかしそうにしている。
千枝も気まずかった。
すると丸戸はおもむろに立ち上がり、千枝にスっと近づき物を渡した。
「これなに?」
物を手に丸戸を見上げた。千枝はまだ丸戸が怖かった。
「葡萄酒です。この間のお詫び・・・・・・」
自分の席へ戻る丸戸。
ちゃっかり横目でこれまでずーっと丸戸の様子を観察していたのだが何もなかった。どうやら合格と言いたいところだった。
だが、葡萄酒の瓶をよく見た。
丸戸犯人説は打ち消されたかに見えたが、余計な疑惑が浮上してしまった。
おゑいの実家にあった葡萄酒とまったく同じ種類のもののようなのだ。
そもそも江戸で葡萄酒が手に入るところは数カ所だろうし・・・・・・。
丸戸が殺ったとしても、寅吉が関わっていないわけないではないか。
どうしよう・・・・・・。
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