
【連載ミステリ小説】 つぼ天狗 #7
観自在菩薩楼。
榕庵が呼んだ自らの書斎の名だ。
千枝や寅吉やその他の塾生が来ていない間は榕庵先生はここに籠って研究していた。
いつもは居間に出文机を横に並べて蘭語、英語の和訳や素読などで指導を受けるのだが、今日は時間が早かったので千枝と寅吉は、この書斎(観自在菩薩楼)の中に招じ入れられた。
千枝は顔料を用いて植物画の写生の作業を用心深くしていた。染みをつけたり適当に模したら大変だ。お金を貰うわけだからいい加減にはできない。
その横で寅吉は文机について英語の本を開き、紙にサラサラと和訳を書いていた。手元に字引もあり、しきりに参照する。
榕庵先生は、明らかに英語の字引とは違う年季の入った蘭語と羅甸語(ラテン語)の字引を重ねて、ときおり康熙(こうき)字典なども参照しつつ不思議な感じのする難しい漢字ばかり抜き出していた。
康熙字典とは、康熙55年(1716)清朝4代の皇帝の勅命で編纂された字書で、所収4万1千余字、当時、最も権威のある字書とされた。
「よし、休憩にしよう」
榕庵が言った。
ピリピリと張り詰めていた神経が休まり心の臓の鼓動が間遠になり落ちついた。
「茶も珈琲もあるぞ」
千枝と寅吉は、いつもここで珈琲を飲むのが好きだった。日本ではじめて珈琲と命名したのは榕庵先生だ。ここでしか飲めないものだ。
寅吉は立ち上がって、かっぷを手に書斎をそぞろに歩いた。書棚にいっぱいの難しい書物を眺めていた。
榕庵先生は眉間に皺を寄せてまだ座って康熙字典となにやら外国語の字引を睨めっこしていた。
「先生、先生のやっていることはなんなのです? 蘭語の先生ではないですか」
寅吉が訊いた。それは千枝も気になるところだった。というのは、先生の読んでいたものは独逸語らしいからだ。
榕庵先生の机は洋式でとりわけ大きく椅子に座して使うものだ。壁際にどっしりと据え付けられている。机の上には雑然と原稿が広げられていた。そこに「スプレンゲル語彙」と書かれてあった。
「私の持ってる独逸語の本はこの本1冊だけだ。あと、蘭語辞典はあるが、独蘭辞典などもない。そんなもんを使って日本にない言葉を造りだしているのだよ」
「しかし、茎は茎だし、葉は葉だし、幹は幹ではありませぬか。なぜ、日本にない唐土の漢字にこだわるのですか?」
「あのな、bractee という独逸語がある。これを袴葉とか萃葉とか訳そうと思うのだが、どういう意味か直観でわかるか?」
「・・・・・・袴のような形をした植物の葉っぱでしょうか」
「そうなのだよ、そういうものがある。bractee という記号には、袴、のような、葉っぱ、という意味が込められている。こんな言葉は日本にないから念のため唐土の漢字にピッタリなものはないかとね」
自分の仕事を楽しむかのように榕庵先生は笑った。千枝も寅吉と他にもそのような例を見た。
corolle 花頭、drussingen 腺様、deckblattchen 蓋葉、einschnitt 刻缺、Rachen 花喉、faderkrone羽冠、frucht 駢胎子(へんたいし)、、、
「dolde という語は傘花。傘のような花ですか。一発でわかる。これは唐人でも理解できますよ」
千枝は感心してしまった。これで唐人も先生の本で植物学が学べてしまう。
「いいか?」
榕庵は嬉しそうに寅吉を見た。
「素晴らしいですよ。私は先生と同じことはできませんが、同じようなことを考えていたのです」
「そうか、わかるかわからないが、教えてくれよ」
包容力のある大きさで笑み榕庵は珈琲を啜った。
「日本神話のような話は多分世界じゅうにある。天之御中主神は儒教の天帝だし、イザナギとイザナミはアダムとイヴだし」
「ふんふん」
「世界の民は唯一の天の子孫だと思うわけですよ。だから、人類皆兄弟姉妹。なにかそういう教えを気吹舎で出版したいのです」
「自分の名前でか?」
「はい」
「そうだな、平田篤胤の名で出すことは憚られるからな」
「今の考えなどどうです?」
寅吉は得意げに言った。
「いいけど、マズイぞ」
寅吉の顔が一気に曇った。
「なぜでございます?」
心外そうに榕庵先生を見つめる寅吉。
「公儀(幕府)がタダで済ますとは思えないからさ」
「?」
「私が用心に用心を重ねているのを知っているか?」
「は?」
「そうだ。植物学なんかやっとるとよくわかる。この世を統べているのは造物主さ。でも、そういうことはな、公儀と相口がよろしくない」
そう言って本を1冊、榕庵は寅吉に手渡した。
『菩多尼訶経』という先生の著作だ。中を読むとまるでお経のような漢文の列挙だった。
「これがなにか?」
「これはお経風の経文調の西洋植物学の入門書なのだ」
「・・・・・・」
「お前ら一家は、おっかねえからなあ。オレの苦労もわかれよ。公儀の目くらましだよ」
榕庵先生は、ワッハッハと笑って珈琲を飲み干した。そういえばと、先生は積み上げてある本を1冊とった。
「この古事記の英訳の仕事、お前ならできるかもしれん。やってみるか?」
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