狼男

お気に入りの本も持った。水筒よし。服にシワもない。これもチェックよし。そして靴。ちゃんと靴紐結んだっけ。これもよしだ。荷物を１つ１つ確認する。出発前には最も大切なこと。あまりダラダラできない、集合時間はもうすぐなんだから。ドアを開ける。突き放すようにつめたい空気。しっとりと重い。変だけど。アパートを後にする。

昼はやかましい。眩しいし。でも今はぽつ、ぽつと灯る街灯と、それよりもちょっと明るい大きな月の光のほかは、なんの光もなかった。道を聞けそうな人はいない。それでも歩き慣れた道だ。昨日はちゃんと道を確認したんだろう？　だからうるさかろうが静かだろうがどうでもいいね。まっすぐ歩いて、右左、またまっすぐ。昨日と同じ。朝焼けはまだ見えない。

歩きながらこんなことを考える。今歩くこの道を僕の進む方とは逆にずうっとたどると、僕の実家に着く。それで、このまま帰ってしまおうか、という考えに至るわけだ。古い小説の言葉を少し借りると、確かじゃあない大義のために、確かな血がながれてるんじゃないかって思う。そんなのに血を流すくらいなら、臆病な野郎とか言われてもいい。寝ていたかった。友達も、これまでの出会いも全部捨てて。それでも心のどこかでは、確かな大義があるように感じられていた。満月のせいだろうか。僕にはわからないや。

角を右に曲がる。しばらく歩いて、また考えこむ。静かな空気に思いをはせる？　わけわからん。今になって、狼男昔話を思い出す。満月の夜とは限ったわけではないけど、真夜中に普通の人間から恐るべき狼の怪物に変身するというお話だ。最後は人を襲い続けたバチが当たって、雷に打たれて死んでしまうらしい。
あらすじは覚えてなくてあいまいだけど、子供の頃寝る前になかなか寝ない僕に対してさ、早く寝ないと狼男がやってきて、取って食ってしまうなんてありふれた脅しは何故かはっきりと覚えている。たまに、狼男になってしまうなんて言われてその時は狼男になってしまうとは怖いと思わなくもなかったけど、今思うと狼男でもいいか。
狼男が本当にいるのか、いたとして人間が変身してしまうのかはわからないけど。
ただ確かなのはもう何十年何百年もの昔から、この町の先祖は狼男だったとか言われてるようだ。だからここでは恐怖の対象がおばけでも吸血鬼でもなく、狼男になっていたらしい。最近知ったこと。
ほんの思い出だ。おとぎ話の思い出だ。今こうして思い出してるのが不思議でならない。緊張しているのだろうか？　それともやはり、僕の遺伝子には狼男の血が流れているのだろうか？　それでこうやって思い出していた？考えれば考えるほど、曖昧になっていく気がした。狼男に近づいているのかもしれない。なるならなりたいけど、でもやっぱり自分というもののいどころが無くなるのは、ちょっと嫌だ。まぁ、なったらなったで、なんとでもなる気はするけどさ。

最後の直線に来ていたようだ。集合場所まであともう少し。

何も考えていなかった。狼男のことも、意識からは消え去っていた。ただ帽子を目深に被り、冷え切った固い道をコツ、コツと歩いていく。ただそれだけだった。目の前にあるのはただ暗い道と、頭より少し高い建物の影だけだった。このあとどうこうとか、そんなのはこの時には全く考えていなくて、ただ早く行かないと怒られちゃうななんて漠然とした焦りがあっただけだった。
焦っている。僕はものすごく焦っている。

すうっとひとっ飛びしたように、あっさりと集合場所の駅に着く。
そこそこ人が集まっているが、まだ整列も何もしていないので、どうやら遅刻したわけではないらしい。遅刻の心配は安心だ。
こうやって集まると、思わぬ友との再会があるのも嬉しい。
君、ここに住んでたの？とか、最近どう？　とか、他愛もない会話をする。野郎が集まったときになされる雑談の八割は大抵女についての話であって、彼女がいるのいないだのと、いないとしていつ別れたんだのと、どうしようもない質問があちこちからぶつけられる。いいじゃないか。こっちも質問を返してやる。質問される。返す。限界だ。降参だ！　僕はこういう話がうまくやれないので、適当にはぐらかした。

ああだこうだ喋っていたら、全員到着したことが告げられる。
人々の集まりがさっと引く。一つの塊から一枚の板へと整列する。ぼくは2列目にいて、少し首を後ろへ向けて数えると、後ろにはあと6列、横には2列と4列になるようだ。
その全てを見渡すように髭面の男が僕らをまとめるように演説を始める。
こういう時の演説はあまり楽しいものではない。
男の話を要約するとこうなる。君たちは勇敢な男で、しかもこの闇夜の満月のもと、敵を喰らい引き裂く狼男であるからとかなんだかそんな事だ。お上の人もそんなことを言っているらしい。
狼男。またしても僕の前に狼男はやってくる。はたして彼の言うように、狼男は勇敢なのか？　本当は怖くてたまらないんじゃないのか？　自分がバケモノということを受け入れられず、ただただ、無力な力を振り回すだけの物なんじゃないか？僕は、そんな狼男にはなりたくない。狼男でも、僕はここにいるということをちゃんと分かる者になりたい。それこそ、勇敢な狼男ではないのか？

そのあと何人かまた偉そうな人の話。常識の確認に続き荷物の確認を行った。
お気に入りの本もある。水筒よし。あれもこれもチェックよし。そして靴。ちゃんと靴紐を結んであるか、これもよしだ。荷物を１つ１つ確認する。その中に見たことない紙切れがあった。さっき確認した時には分からなかったが、どうやら何かの手紙のようだ。すこし折れシワがあることから、本に挟まっていたらしい。誰が入れたのだろう？　犯人はすぐにわかった。僕の妹だ。僕はそれを手の中でちいさくして、電車の中で読むことにした。珍しいな、手紙なんて。

「親愛なる兄へ
私はとても不安です。2度と会えないような気がしてしまいます。」

電車の警笛が鳴る。

「それでも行ってしまうのでしょう。そう思って、あなたがいつでもよめるよう、こうしてお気に入りの本に挟ませていただきました。」

電車が動き出す。手紙を読む僕に対して友達がちょっかいをかける。のろけてなんかいない。

「こういう形でしか見送れないのは切ないですが、会えてこう書かせてもらいます。気をつけて。」

何かの叫ぶ音が聞こえる。いや、叫ぶ音なんかではない。地獄からの雄叫びのような、そんな音。どおおん。

「私はこうして祈ること、そしてあなたを思って泣くことしかできません。ですが、あなたの無事をわたしたちは信じています。そしてあなたが私たちをしっかりと守ってくれることも。神様とともに。」

闇夜に似合わない、そんな光が僕らを包む。包むというより無理矢理にでも照らすような、優しさも何もない光だ。全てを焼く、そんな光。

「では帰りを待っています。くれぐれも体に気をつけてください。 私はこうやって出かけるのにもウソのつけないお兄さんが大好きです。ではまた。

最後に書いてあるはずの名前は読むことができなかった。そうか。約束を破ってしまった。大切な、大切な約束。僕はどうやら大嘘つきの狼男だったらしい。

燃えた。