未亡人日記●22「霧笛」


あの頃はみんな、レイ・ブラッドベリを読んでいましたよね?

みんなというのは語弊があることをわかりながらそう書いてみる。
「たんぽぽのお酒」とか「10月は黄昏の国」とかね。
(あらゆるものがインターネットにのっている今と違って、特定のある雑誌や特定の筆者がすすめる新刊などは、だいたい、そのような趣味を持ち、本を読んでいる若者にとっては共通だったというぐらいの意味です。)

10月の夜のせいでそんなタイトルを思い出しているんだな、私は。

レイ・ブラッドベリの「霧笛」。私はこの短編が好きだった。
島の先端にある灯台。霧笛が鳴る夜は身近だった。
海底の奥底の眠りから覚めた太古の生物が、自分だけが最後の生き残りであることを知る泣き声が、夜のしじまに響きわたり、霧笛と二重唱になる。その圧倒的な悲しみの声を、霧笛の夜には夢想してみたりしていた。
「わたしはだれかと出会えるのだろうか?」というのが、ロマンチックな夢をみている田舎の中学生の頭の中であり、関心事であった。

時を経て、私はレイ・ブラッドベリを読んでいたこともあるような男子と知り合った。なぜなら、部屋に遊びに行ったら、「たんぽぽのお酒」があったからだ。また、バタイユの「青空」などもあり、(油断できないな…)と、バタイユは読んだことのない私は身構えた。ロバート・B・パーカーもあった。それはブラッドベリの本を買う人らしいラインナップであり(私も当時の書評にやられて一応読んでいた)バタイユが書棚になかったら、「エスクワイヤ」が好きな人なのね? と判定するところだった。

結婚してみたら、この男子は「東海林さだお」が好きなことがわかった。というより、寝る前の読書では「ショージ君」シリーズを読むのしか見たことがない。電気スタンドの明かりでショージ君を読んでいるとパタリと手がとまり、本をぱたりと取り落とした後、かちゃり、と眼鏡をはずして寝る、という儀式を毎晩行っていた。
その隣でまだまだ私は本を読みつづけながら、「私は出会えたのだ、これは奇跡だ」、と思ったこともあったかもしれない。

出会うということはもちろん別れるということで、いまの私は「霧笛」の恐竜のようなものだ、と10月の夜の電気スタンドの明かりの前で思うわけで、出会ったと思ってもそれは永遠ではないのですよ。

でも、虫の息のとき、夫は私にこう言った。
「出会って、よかった」

ロマンチック・ラブはいつも悲しみと二重唱だ。


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