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「熟読」について @ 続き

 前回、「熟読」についての記事を書きました。今回は、その続きを書こうと思います。

 前回の記事では、人間の認識は固有のものであり、他者と完全に共有することが決してできないものであるという話をしました。それゆえに、読書とは、筆者の認識に可能な限り近づくために、常に自己認識を客観的に見つめることが大切だと述べました。
 その意味で、読書とは常に「読み間違い」が前提にあり、それを修正しながら「読む」ためには「熟慮」が必要になるため、「熟読」をすることが重要であると述べました。その能力を育てるのが「国語」という教科の役割であると、私たちは位置付けています。

 そのように、前回は「人間の認識」の問題を通じて、縦軸で「熟読」を考えました。その動作に到達するためには、どのような研鑽が必要かという視点です。それを今回は横軸に広げて考えます。「熟読」とは、具体的にどのような動作かということについてです。
ただし、それはあくまで私たちが子供たちを育てていく指針としての「熟読」ではあり、「熟読」は絶対的にそのようなものではありません。

 さて、前回の記事では、一冊の本を理解しようと思えば、深い思索が大切であるという話をしました。本の内容を瞬発的に理解しょうとしても、誤解が生じるだけです。したがって、「読む」にあたっては、筆者がどうしてそのような表現をしたのか、その意図や認識を考えることが大切です。
 しかし、これも簡単にはいきません。それは、「理解」とはあくまで個人の知識と経験の範囲内でしか成立しないからです。つまり、筆者の知識と経験が深く、読者の知識と経験が浅ければ、永遠に筆者の認識の理解に辿り着くことはできません。もちろん、極論を言えば、どこまでいっても個人の知識と経験は完全に一致することはありませんから、絶対的な理解は存在しないのですが、それは無視して考えても、認識とは知識と経験に差があればあるほど遠のくものです。

 故に「熟読」には、一冊の本を「時間を置いて何度も読む」ということも必要になります。その置いた時間で積んだ知識と経験が、最初に読んだときに辿り着けなかった理解に辿り着かせてくれます。それは、名著になればなるほど、終わりの見えない繰り返しを続けられるもので、読む度に新たな発見を与えてくれます。

 人生において読むべき本の数は、それ程多い必要ありません。確かに一冊より二冊の方が良いでしょう。しかし、それが千冊や万冊を数える必要は無いと思っています。読書において大切なのは、自分の人生を生涯研き続けてくれる本に出会えるかどうかです。そう思える本に出会えれば出会えるほど、読む冊数が減っていくのが読書だと思っています。

 その意味において受験国語は、その子が読書に向かうための、とても優れた見本市です。受験勉強を通して、様々な文筆家の存在を知り、その中から自分に合った人を探し出すのに最適です。
 たとえば、私が受験生時代に感銘を受けた文筆家は幸田文です。その美しい文章に憧れをいだきました。最近は、読み返すことは無くなりましたが、今でもそのときの感動だけは、鮮明に覚えています。私の文章が美しいものになったとは到底言えませんが、文章の持つ力、無限の可能性は、幸田文の文章から学びました。私の受験勉強の思い出と言えば、幸田文との出会いぐらいしか覚えていません。

 故に、BOX OUT では「国語」を無機質な「試験科目」として扱いません。その子の人生を豊かにする読書、その営みを身に付けさせる教科として扱います。ただ、そういう姿勢で本、文字、言葉と向き合えるようになった子は、必然的に成績も上がることを断言できます。

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