運命の1冊
“雨の日に読みたい本を持ちよって、みんなとその本について語りませんか?”
ふだんはあまり降りることのない駅。仕事の研修帰りにぐうぜん通りかかった小さなカフェの入口に、こんな案内を見つけた。梅雨入りまであと1ヶ月はあるだろう、という5月半ばのことだ。
ん?“雨の日に読みたい本”を持ってきて語る?クンクン、なんだか楽しそうな匂いがするぞ。どれどれ。
「すみませーん。入口に貼ってある案内を見たんですけど」
迷うことなく、ただちにカフェに入店。
レモン味のまんまるラムネのような優しい色みの壁。中煎りのコーヒー豆のような色をしたテーブル。
道沿いの大きな窓ガラスからはたっぷりと太陽の光が入り、店内を照らしている。入口の近くには大きなクワズイモ(観葉植物)が置かれ、気持ちよさそうに葉を広げている。
4人掛けのテーブルが3つと、2人掛けのテーブルが2つ。あたたかみのある、なんとも居心地のよさそうな空間だ。
「いらっしゃいませ。雨の日に読みたい本のイベントでしょうか?先着10名さまのイベントで、6月23日の日曜日に開催します」
髪をほどよくキリリと束ねた女性が、和やかな笑顔と一緒に答えをくれる。
よし、決めた。参加する。
♢
“雨の日に読みたい本”にピッタリの本ってどれかなぁ。頭の中でグルグルと思いをめぐらせる。家の本棚の2段目にあるあの本。寝室のクローゼットにポンと置きっぱなしの読みかけの小説。それらが思い浮かんでは消えていく。
家に着くと本棚へ直行した。
本の背表紙に視線を走らせ、「雨の日に読みたい本、雨の日に読みたい本」とつぶやきながら数冊を手にとる。
この短歌集、雨を詠んでいる句が多く載っている、これいいかも。
写真集のこの水たまりの写真、儚い感じが雨の日にぴったりかも。
この小説、そぼ降る雨を縁側でぼんやり眺めているこのシーンが捨てがたいな。
次から次へと本のページを繰り、思いをめぐらせる。
読書イベントは1ヶ月先。まだ時間がある。今まで読んだことのない新しい本を開拓してみるのもいいかもしれない。
しかし、はて?“雨の日に読みたい本”をどうやって探そう。いったいどんな本が雨の日にぴったりなんだろう?
“雨の日に読みたい本”を選んでください、とお題が出されたら、世の中の人はどんな本を選ぶんだろう。
えいっ、Google先生に聞いてみよう。
えっとー、Google先生、お願いします。“雨の日に読みたい本”、おすすめ、人気。よし、Enterキー。
あらあら、出てくる出てくる。なになに?雨の日に読みたい本ランキング、雨を感じさせる本、雨が印象的な本・・・へぇ、いろんな本があるんだ。次々とクリックをしながら候補をさがす。
結局、いくつものサイトに“雨の日のおすすめ”として挙げられている本で、しかも、今まで一度も読んだことのない作家さんの作品をいくつか選んだ。
『雨のなまえ』 窪 美澄著
『いま、会いにゆきます』 市川 拓司著
『死神の精度』 伊坂 幸太郎著
『蒼空時雨』 綾崎 隼著
あらすじを読む限り、どの本も興味深い。なかなか決められない。でも、もともとミステリー小説は苦手だし、伊坂幸太郎さんはないかなぁ。
うーん、決められない。どうしよう。よし、それならこの4冊をメモして、近所にある本屋さん(**それほど大きくない近所の本屋さん、好き)に行こう。この4冊のうちのどれかを見つけたら、それを買うことにしよう。
♢
近所の本屋さんに着くと、文庫本売り場をめざす。
『雨のなまえ』、あぁ、置いてない。『いま、会いにゆきます』は在庫切れ。映画化もされた小説だもんね。『蒼空時雨』、あぁ、これもない。
伊坂幸太郎さんのセクションに行く。えーっと、『死神の精度』、『死神の精度』・・・
あ、あった。うーん、でもなぁ・・・基本的にはミステリー小説は苦手なんだよねと思いながら、『死神の精度』を手にとろうとした。
その瞬間、分かった。
これ、ワタシの運命の1冊だ。
まだ背表紙に触れてもいない。プロローグを読んでもいない。でも、分かった。この本は運命の1冊なんだ。
今まで多くの本と出会ってきた。その中でも、これぞ運命の1冊、と思える本が数冊あった。
あのときの空気感に似ている。
ワタシの指先が、本の背表紙に触れようとする瞬間に感じる“何か”。指先の、さらに先端が感じるスパークみたいなもの。
なぜかは分からない。でも指を伸ばしたとき、誰に教わるわけでもなく、『あ、これは運命の1冊だ』って分かる。それはとても分かりやすい瞬間。
今まで、伊坂幸太郎さんの本は1冊も読んだことはない。そもそもミステリー小説が苦手だ。ドキドキハラハラしすぎてしまう。
それでもワタシの指先は感じた。その“何か”を。
その“何か”がこう伝えている。これはあなたの運命の1冊ですよ、と。
♢
1ヶ月後、“雨の日に読みたい本を持ちよって、みんなとその本について語りませんか?”イベントに参加した。もちろん、お気に入りのブックカバーをかけた、伊坂幸太郎さんの『死神の精度』を鞄に入れて。
“雨の日に読みたい本”のイベントに合わせたかのように、細くて長い糸のような優しい雨が降っている。参加者は、みなさんはじめましての方たちばかり。
順番にそれぞれ持ちよった本の魅力を、外を濡らす雨のようにしっとりと語る。
ワタシは1人だけ、梅雨を通りこして灼熱のギラギラの太陽のようなテンションで語ってしまったかもしれない。『死神の精度』のストーリーや伊坂幸太郎さんの魅力を。そして、この1冊と出会ったエピソードを。
このイベントがなければ、伊坂幸太郎さんの作品を手にとることはなかったかもしれない。そう思うと、語り口は自然とアツくなり、身振り手振りが大きくなった。
最後に、このイベントに参加できたことに心からお礼を述べた。
♢
ふだんは降りることのない駅。ぐうぜん目にした読書イベントの案内。この1冊だけが見つかった本屋さん。
こんなふうに、ほんの少しの偶然がかさなって出会った運命の1冊。
それ以来、伊坂幸太郎ワールドにどっぷりと浸かっている。
大切な時間を使って最後まで読んでくれてありがとうございます。あなたの心に、ほんの少しでもなにかを残せたのであればいいな。 スキ、コメント、サポート、どれもとても励みになります。