システムとしての「闇」と文学 マイク・モラスキー編「闇市」

 闇市、と聞いて、どんな映像が目に浮かぶだろうか?
 闇市が現役だった頃、というのを私は知らないが、映像としてすぐに浮かんでくるのは、「仁義なき戦い」のオープニングシーンだ。同じ広島が舞台の「はだしのゲン」も闇市が重要な舞台になっている。
 違法で、無法で、不潔で、猥雑で、煮えたぎるマグマのような場所。そんなイメージだろうか。

 本書は、「闇市」に焦点をあてた戦後小説11編のアンソロジーだ。

「イチバ」であり「シジョウ」な闇「市場」

 編者はあえて、ヤミ市ではなく、闇市と漢字をあてている。これは、ヤミ市は場所としての「市場(イチバ)」としての側面を指すのに対し、本書の闇市はマーケットとしての「市場(シジョウ)」としての側面をも含むかららだ。

 その上で、編者は11編の短編を3つに分類する。

1.経済流通システム
2.新時代の象徴
3.解放区


1.流通経済システム
 闇市というより、Black Marketと称したほうが「システム」としての闇市というのが想起しやすいかもしれない。場としてのヤミ市だけでなく、システムとしての闇経済が、戦後日本の経済に大きな影響を与えた。
 ここには、以下の3編が収められている。
太宰治「貨幣」
耕治人「軍事法廷」
鄭承博(チョンスンバク)「裸の捕虜」

 太宰の「貨幣」は、擬人化ならぬ擬女化した百円札によって語られる、まさに「お金の行き来」だ。
 耕治人「軍事法廷」は、違法なドル取引をめぐる、どこかハードボイルドな文体。
 鄭承博「裸の捕虜」は、闇食材の買い出しなのだが、在日朝鮮人である主人公は闇商人なのではなく、正規の工場の社員として田舎まで調達に行く。第三国人である主人公の不安定性はさることながら、長野での中国人捕虜の姿というのは「イワンデニーソヴィチの一日」や「タタール人の砂漠」を想起させた。

2.新時代の象徴
 闇市は戦後という新時代の中にあり、そして戦後という新時代は闇市によって作られた。それは野坂昭如が自称した「焼跡闇市派」という言葉によく象徴されている。ここには、野坂を含め4編が収められている。
平林たい子「桜の下にて」
永井荷風「にぎり飯」
坂口安吾「日月様」
野坂昭如「浣腸とマリア」

 坂口「日月様」と野坂「浣腸とマリア」にはいずれも男娼が登場する。野坂の場合には新(真)の自分の発見というのがあり、坂口の場合にはそこに「嘘」であったり「信じられなさ」が介在している。
 「浣腸とマリア」の少年が底辺を這いつくばりながら世の中を見上げている感じならば、「桜の下にて」の深窓の令嬢は窓を通して街を見下ろしている。彼女にとって闇市は、近寄りがたい異空間だ。
 永井荷風「にぎり飯」は他の3編と異なり、「無感動」を貫いている。人は新時代が来ると思えば、どうしても力んでしまうが、「にぎり飯」の登場人物は、他の3編と劣らずというか、あるいは他の3編よりも過酷な状況を体験しているにも関わらず、この新時代を飄々と受け止めている。

3.解放区
 新時代の到来とは、つまり旧体制の崩壊を意味し、旧体制で束縛されていた人は解放感を得られたのだろう。ただ、「解放区」とは必ずしも「場所」を指すものではなく、やはり闇市という社会のシステムを指すと考えられる。
 ここには、次の4編が収められている。
織田作之助「訪問客」
梅崎春生「蜆」
石川淳「野ざらし」
中里恒子「蝶々」

 しかし、彼らが皆、真の「解放」を得たかと言うと、そうではない。「野ざらし」で駆け落ちする娘さんは、束の間の解放であろうし、「蝶々」の長官夫人の解放感は陰と表裏一体だ。「蜆」の男たちに至るとその陰は大きく、「訪問客」の三人目の商売人になると解放とはほど遠い。
 「訪問客」には三人の闇市の商売人が描かれていて、上手くいった者もいれば、そうでない者もいたことを教えてくれる。
 闇市に、完全な勝利者などいない。完全な敗者はいたかもしれないが。

今も生きる闇市

 「闇市」は戦後という新時代を作ったが、今はその姿を消したのだろうか。
 先日、京橋に行った時、関西出身の義兄が「高校生の頃は、京橋と十三は近づいたらあかんって言われてたん」と言っていたが、京橋も十三も闇市の名残を留めた数少ない街の一つだ。
 義兄の言葉を受けて「北千住に似てますね」と京橋の感想を漏らしたが、まさしく東京ならば、北千住や立川の再開発を免れたあたりのごちゃごちゃした感じはまさしく闇市の名残だ。

 居酒屋専門家でもある編者は、あとがきで、闇市由来の飲食店の特徴をあげている。
 小規模で、装飾が質素で、店内と店外の境界線が曖昧で、トイレは近くの公衆便所、など。

 私が仙台で入り浸っていた飲み屋も、まさにこれらの特徴を抑えていた。仙台特有の「横丁文化」は、まさに闇市由来のものだ。もっとも、メチルアルコールを混ぜた「バクダン」のようなヤバいものは出てこないが。
 仙台くらしの中で、この「横丁」で、様々な人と出会い、酒を交わし、酔いが覚める前にさよならを交わし、ほとんどの人とは二度と出会わなかったわけだけれども、横丁の雰囲気には、何度救われたことかわからない。

敗戦後、老若男女を問わず、誰もが何らかの形で闇市に頼っていた

 私もまた、「闇」にすがって生きている。