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【沖縄戦:1944年8月5日】沖縄~本土間定期航路船「宮古丸」、奄美諸島徳之島沖で米潜水艦により撃沈される

「宮古丸」の遭難

 沖縄と本土を結ぶ定期航路貨客船「宮古丸」がこの日、奄美諸島の徳之島沖で米潜水艦「バーベル」の攻撃により撃沈され、288人が死亡した。
 もともと宮古丸は1914年に大阪鉄工が製造した貨客船であり、船長58メートル、総トン数970トン、速力9.5ノット、レシプロエンジン、石炭燃料、沖縄近海を航行するには比較的小型の船舶であった。
 宮古丸は月日不明ながら船客343人、軍需品44トン、郵便120個を積載して鹿児島港を出港し、途中、奄美大島の俵港に寄港、8月5日早朝に出港、那覇に向かっていた。船団はなく、三隻の海軍漁船艇が護衛として随行していた。
 ところが正午過ぎ、徳之島南方6カイリ付近の海域でバーベルにより船体左舷中央部に魚雷攻撃をうけ、わずか1分後には船体後部から沈没した。船客は救命艇や救命筏などにしがみつき、救助を待つことなったが、船体の沈没が急であったため、多くの乗客が退船できず海没したといわれる。
 この宮古丸の戦時遭難で気になるのが、「宮古丸事故報告書」に護衛艦である漁船艇の救助が遭難から約2時間後におこなわれたという点である。すなわち報告書には

6.護衛艦の処置及行動
 本船を護衛せる漁船艇は雷撃と同時に爆雷攻撃にて敵潜制圧に趣き5日14時半頃3隻共現場に帰来し遭難者の救助に当れり。

(保坂廣志「平和研究ノート─戦時下の沖縄定期航路船舶遭難に関わる実相」〔『琉球大学法文学部紀要』地域・社会科学系篇 第3号、1997年〕)

とあり、宮古丸がバーベルの攻撃をうけた直後から漁船艇はバーベルへの反撃を開始し、救助は沈没の約2時間後である14時30分ごろから開始したと読める。もちろん米潜水艦を取り逃がせば第二、第三の被害が出ることになり、反撃をおこなうことは海軍として当然なのであろうが、ただちに救助が開始されれば救われた命もあったのではないだろうか。
 また報告書には、

8.其の他参考となるべき事項
イ.本船は航海速力9浬半なるも当時の漁船艇は6浬半の低速力なりしため敵潜水艦に乗せらるるの機を与えたるが如き感あり。

(同上)

ともあり、宮古丸より護衛の漁船艇の速力が遅いため米潜水艦に攻撃の隙を与えてしまったと読める。「軍隊は住民を守らない」との言葉を思い浮かべざるをえない。

米軍の無制限潜水艦戦

 米海軍作戦部長のハロルド・スターク大将はアジア・太平洋戦争の開戦直後、太平洋地域で作戦行動を展開中の海軍司令官たちに「対日無制限航空・潜水艦戦の実施」を発令した。日本の艦船は軍艦のみならず、民間人が乗船する輸送船や商船であっても無警告で攻撃してよいという命令である。言うまでもなく国際法違反であった。
 米潜水艦部隊は南西諸島周辺海域はじめ太平洋のあちこちにひそみ、43年には約100隻の米潜水艦部隊が「群狼戦法」といわれる数隻の潜水艦が協調して敵船団を攻撃する作戦で日本商船の大量撃沈に踏み切った。これにより日本の海上輸送は壊滅状態に陥っていく。
 バーベルは新造艦であり、この年7月ごろ小笠原諸島近海に進出し、その後南西諸島近海で哨戒活動をおこなっていたが、このころバーベルとともに南西諸島沖で哨戒活動をおこなっていた米潜水艦には、後に対馬丸を撃沈させるボーフィンなどもいた。宮古丸遭難も、こうした米軍の無制限潜水艦戦の一環であり、すでに南西諸島の制海権が米軍に奪われているなかでの出来事であった。
 ちなみにであるが、真珠湾攻撃では、日本海軍の大型潜水艦25隻が真珠湾のあるオアフ島に配備されていた。当時の海軍の保有潜水艦数は64隻であり、じつに4割もの潜水艦が攻撃に投入されていたのである。
 その25隻の潜水艦のうち、5隻は甲標的といわれる小型潜航艇を搭載した特攻部隊であり、甲標的が湾内に突入し米艦船を攻撃する作戦となっていた。5隻とも未帰還に終わったが、少なくとも1隻が湾内に突入し米艦船に魚雷1発を命中させたといわれている。
 他方、これ以外の20隻の潜水艦は、偵察と真珠湾から出てくる米艦船への攻撃を任務としたが、米軍の対潜部隊に制圧され戦果をあげられず、逆に1隻を失う結果となった。
 以降の戦局において、海軍潜水艦部隊は、華々しい戦果をあげられず、逆に米潜水艦部隊は無制限潜水艦戦において多大な戦果をあげていく。真珠湾攻撃の際に見せつけられた米軍の潜水艦戦の能力の高さに、まさに宮古丸や対馬丸事件の予兆や暗示があったといえる。

戦時撃沈船舶と情報統制

 戦時下、沖縄と九州や大阪など本土を結んだ定期航路で米軍に撃沈された船舶は5隻(沖縄~本土間の定期航路船の撃沈の数字であり、沖縄はじめ南西諸島近海における日本商船の喪失数は150隻ともいわれる)。すべて船舶運営会の管理下にあり、船主は大阪商船であった。
 政府は42年3月、戦時下においてあらゆる船舶を自由かつ効率的に運用するため戦時海運管理令を施行し、翌月には船舶運営会を設置した。その上で海運業者から徴用した民間船の一部を船舶運営会に貸し下げ、同会は政府の計画に従って民需物資の輸送をおこない、海運の一元化に協力した。また大阪商船は開戦時の沖縄と本土を結ぶ定期航路船を独占していた。
 米軍に撃沈された五隻は、43年5月の米潜水艦ソーリーに攻撃された「嘉義丸」(2344トン)、同年12月の米潜水艦グレイバックに攻撃された「湖南丸」(2627トン)、44年4月の米潜水艦ハリバットに攻撃された「台中丸」(3213トン)、そして44年8月のこの日に米潜水艦バーベルに攻撃された宮古丸(970トン)、45年3月に米軍用機に爆撃された「開城丸」(2025トン)である。それぞれ多くの死傷者を出した他、これら船舶を護衛していた護衛艦も攻撃されて沈められるなどしている。
 なお、これらの遭難を命からがら助かり奄美大島などに辿り着いた生存者は、憲兵の監視下で情報統制のため外部との連絡文通や外出にも許可がいる軟禁状態に置かれた。米潜水艦による船舶撃沈の事実は、ひた隠しに隠されたのである。
 戦時撃沈船舶としては対馬丸が有名であるが、軍や当局者はこのように南西諸島海域が危険で、実際に宮古丸など被害が出ていることを把握しながら、そうした情報を統制し、県民に充分な説明をしないなかで対馬丸事件は発生していくのである。

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・保坂廣志「平和研究ノート─戦時下の沖縄定期航路船舶遭難に関わる実相」(『琉球大学法文学部紀要』地域・社会科学系篇 第3号、1997年)

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中島髙男制作「対馬丸沈没 浮かぶ子どもの死体」:NHK戦争証言アーカイブス