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【沖縄戦:1945年5月7日】米軍、運玉森(コニカル・ヒル)方面で攻勢 石川収容所内に石川学園開設 伊江島住民の慶良間諸島への強制移動

7日の戦況─運玉森の戦い

 第二防衛線右翼の運玉森(米側呼称:コニカル・ヒル、現在の西原と与那原にある沖縄カントリークラブ周辺)方面は米軍の攻撃をうけ、我謝、小波津西方高地の一部に米軍が進出した。

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首里方面から運玉森を望む:筆者撮影

 幸地地区は戦車を伴う有力な米軍の攻撃をうけ、米軍は陣地内に進入してきたが、守備隊は午後には米軍を撃退した。
 前田地区では終日混戦となり、守備隊は前田高地洞窟内に閉じ込められ馬乗り攻撃をうけながらも抵抗をつづけた。また前田集落南側地区では、戦車を伴う有力な米軍の攻撃をうけ激戦となり、主要な陣地は確保したものの、同地の独立臼砲第1連隊本部、独立歩兵第11大隊本部、歩兵第32連隊第3大隊本部の洞窟は米軍の馬乗り攻撃をうけた。
 安波茶方面では、強力な米軍の攻撃に対し、辛うじて安波茶南側高地を保持していた。
 歩兵第15連隊第5中隊を基幹隊とする守備隊が配備された沢岻北西約800メートルの50メートル閉鎖曲線高地付近(現在の浦添市立神森中学校のあたりか)では、昨日に引き続き米軍の強襲を撃退して陣地を保持した。
 前田集落南側で各隊入り乱れ混戦状態となっていた歩兵第32連隊は昨6日夜、勝山南西側の窪地に移動し、この日左側支隊、第62師団輜重隊などと連絡がとれた。また独立歩兵第29大隊が連隊に配属された。
 棚原から撤退した連隊の第1大隊(伊東大隊)はこの日朝、平良町に到着した。

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印刷受信機と移動通信施設をつなぐ第一特別工兵隊通信センター 45年5月7日撮影:沖縄県公文書館【写真番号02-06-3】

第32軍の意見具申

 第32軍牛島司令官は上級軍である第10方面軍に対し、今後の戦局の見通しや軍の作戦方針などについて次のように意見具申した。

第十方面軍司令官宛 第三十二軍司令官発
参 考 参謀総長、聯合艦隊司令長官
 球参電第二九四号
 我カ地上作戦意ノ如ク進展ヲ見ス主戦力ノ損耗甚タシキモノアルモ帝国戦勝ノ関鍵トシテ沖縄作戦ヲ必勝不敗ニ導クハ絶対ニ必要ナリト確信シ之カ爾後ノ方策ニ関シ左ノ如ク具申ス
一 一般方針
 地上ハ総力ヲ挙ケテ持久シ敵未タ地上攻略ノ成否ニ関シテ疑念ヲ懐キアル此ノ短期間ニ於テ国軍航空ノ主力ヲ以テ敵艦船主力ヲ撃滅シ敵ヲシテ沖縄作戦ノ継続ヲ断念セシム
二 戦況ノ推移ニ関スル一般観察
  [略]
 2 軍ノ主戦力ハ極度ニ減少シアルモ全員歩兵トナリテ敢闘セハ敵ト全線対峙ノ状態ヲ以テ向二週間確実ニ組織的戦闘可能ナルヘシ 敵ノ攻撃ニ対シテ我カ複廓態勢ヲ採ルニ於テハ二週間以上ノ持久ハ策シ得ヘキモ斯クテハ敵ノ継戦意志破摧ハ期待シ得サルヘシ
  [略]
三 地上作戦要領
  地上ハ全力ヲ以テ円形複郭態勢ヲ採ルコトナク北方ニ対スル防禦ニ徹底ス
  [略]
五 軍地上戦力ノ概要左ノ如シ
 第六十二師団 三分ノ一(歩兵ハ六分ノ一)
 第二十四師団 五分ノ三(歩兵ハ五分ノ二)
 軍砲兵部隊 砲兵二分ノ一 弾薬三基数
 独立混成第四十四旅団(四大隊)五分ノ四
 組織的持久ノ目的ヲ可及的長カラシメ航空作戦遂行ノ利ヲ期スル為輸送的ニ兵力(精強歩兵)ノ増強ヲ計ル
 右小官ノ不敏ニシテ指揮統帥適切ナラサリシ罪ヲモ省ミス 大元帥陛下ノ有難キ御言葉ヲ拝シテ皇国ノ前途ヲ深ク省察シ敢テ具申スル次第ナリ 第三十二軍司令官

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 意見具申における「輸送的ニ兵力ノ増強ヲ計ル」は意味がよくわからないが、空輸により兵力を沖縄に派遣してほしいという意味だろうか。いずれにせよ、この意見具申は神直道航空主任参謀の起案によるものであり、八原高級参謀はこれに不賛成であったという。

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前線へ向かう米軍戦車 45年5月7日撮影:沖縄県公文書館【写真番号05-07-1】

米軍「マジック」より

 この日、米軍情報部が日本軍の情報を傍受し各隊に配信する「マジック」には、次のように記されている。

2.北部琉球─日本軍航空要人の救出
5月6日の電報で、以下のように命令している。
「航空搭乗員を奄美から九州にかけて北方の島伝いに上陸させる救助の準備をなせ。機雷艇を使用し、救出作戦は夜間のみ実施するものとする」。

(保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版)

 第32軍が発した情報を米軍が傍受したのか、本土などの軍が発した情報を米軍が傍受したのか不明ながら、どこかの地を発った航空搭乗員を奄美から九州にかけて島伝いに上陸させるので救助せよ、という日本軍の情報である。具体的にこの作戦が何だったのかもよくわからないが、6日の電報ということなので日は前後するものの、この日の第32軍の意見具申における空輸での兵力増援と何か関係あるかもしれない。あるいはこの日より3日後の5月10日、意見具申を起案した神直道航空主任参謀が空路本土に赴き、大本営に航空増援を直談判するため首里司令部を出撃することが決定するが、そうした動きと関係あるかもしれない。
 いずれにせよ、沖縄戦の地上戦の裏で少なからず沖縄を脱出し奄美諸島を経由し本土に赴く者がいたのは事実である。

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嘉手納飛行場に到着する海兵隊第2師団のコルセア戦闘機と井戸 45年5月7日撮影:沖縄県公文書館【写真番号72-44-1】

石川収容所ではじまった「学校」

 美里村石川の民間人収容所(現在のうるま市)でこの日、収容所内の子どもを集めた学校である石川学園(現在の城前小学校)が開校した(開校日は5月10日ともいわれる)。しかし収容所を一歩出れば日米が激戦を展開している状況であり、「学園」といっても「校舎ナシ、教科書、学用品、腰掛、机等学校設備ト見ラルルモノ一切モナシ」といわれ、青空教室と地面に文字をかかせる砂文字での教育であった。
 石川学園は4月半ばに高江洲収容所で開設された高江洲小学校とともに沖縄戦時、かなり早い時期に開設された学校の一つであるが、以降、沖縄各地で青空教室と砂文字の「学校」が開設される。
 戦場で死と隣り合わせの恐怖を味わい、親を亡くしたり、家族と離れ離れになっていた子どもたちは心身ともに傷ついており、子どもが米軍の物資を「戦果」などといって盗むなどの悪事が問題となっていた。そのため米軍にとっても学校の設置は重要な課題であったが、復活させた学校において軍国主義教育・皇民化教育が繰り返されることは絶対に認めることはできず、また知識人である教員たちの団結や社会的影響力にも警戒しており、米軍も恐る恐るの状態で学校をはじめていったといわれる。
 一方、教員たちも学校にどのように向き合うべきか悩み、苦しんでいた。軍国主義教育に加担し、子どもたちを戦場に送り、命を奪ってしまった悔悟や、自らが兵士として人間の命を奪ってしまった事実を前に、戦争終結後も一部の教員は学校に戻らず、教育の世界から離れていったといわれる。

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先生と子ども 石川収容所の運動場で 石川学園の青空教室の画像だろうか 45年撮影:沖縄県公文書館【写真番号78-01-2】

伊江島住民、慶良間諸島に強制移動させられる

 伊江島では激戦ののち米軍が占領し、日本軍が建設した飛行場の復旧・拡張をおこなっていたが、生き残った住民は伊江島のナガラ浜で米軍に保護・収容され、2100人ほどが収容生活を送っていた。また伊江島に米軍が上陸する前に本部半島に疎開していた住民は、大浦崎収容所に収容された。
 米軍はこの日、ナガラ浜で収容生活を送っていた住民をLST(戦車揚陸艦)に乗船させ慶良間諸島へ移動させた。米軍は以降数回にわたり住民を慶良間諸島へ移動させ、最終的に同諸島慶留間島に400人、渡嘉敷島に1700人の伊江島住民が移動した。
 比較的多くの伊江島住民が移動させられた渡嘉敷島では、日本軍部隊とともに住民は山に避難し、伊江島住民はもぬけの殻となっていた渡嘉敷島の集落で生活を送った。
 伊江島住民は米軍の命令で山にこもる日本軍や住民に投降を呼びかけたが、日本軍は投降を呼びかける伊江島住民を「スパイ」として殺害している。日本軍は最終的に9月ごろに投降するが、それまでに合計10人の伊江島住民が殺害されたといわれている。
 また住民のいなくなった伊江島は、これ以降、本土空襲用の航空基地として使用されることになる。

[証言記録 市民たちの戦争]悲劇の島 語れなかった記憶~沖縄県・伊江島~:NHK戦争証言アーカイブス

戦後、慶良間諸島の渡嘉敷島に送られた平安山良有さん:NHK戦争証言アーカイブス

久米島警防日誌より

 この日の久米島の警防団の警防日誌には、次のように記されている。

 五月七日 月 曇夕方ヨリ雨 日直 山里昌由
  [略]
一、漂着死体埋葬ス 広島県安佐郡祇園町字長糸 海軍少尉 吉村信夫
   漂着場所 当島西南方珊瑚礁
   埋葬場所 当島共同墓地
 死体ハ腐乱シ着服モ破□[ママ] 遺留品ハ只ダ腹巻一枚ノミ

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 久米島の警防日誌に記された特攻隊員などと思われる日本軍将兵の遺体の漂着の記録については、これまでも何度か取り上げてきた。この日漂着し埋葬された吉村信夫海軍少尉の詳細は不明であるが、あるいは4日の総攻撃にあわせて実施された陸海軍の航空総攻撃(菊水作戦)に出撃し戦死した特攻隊員だったとも考えられる。遺体は腐乱し着衣もぼろぼろの状態で、遺留品と呼べるようなものはただ腹に一枚身につけていた腹巻のみ。そんな姿で故郷を遠く離れた島に埋葬される特攻隊員たち。あまりにも残酷な「戦場の現実」「特攻の現実」である。

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座間味島南西部の阿真の町のこどもたち 45年5月7日撮影:沖縄県公文書館【写真番号110-14-4】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・『伊江村史』下巻

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騎馬戦のようなことをして遊ぶ子どもたち コザにて 45年8月4日撮影:沖縄県公文書館【写真番号112-28-4】