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【悪用厳禁】バレない噓をつくためのたった一つの方法

噓、フィクション、幻、まやかし、虚構。言語活動(創作活動)とは詰まるところこれらへの向き合い方そのものである(言語そのものが、現実を模倣した虚構だから)。そして、人間の思考とは言語活動そのものであるため、虚構への向き合い方を論ずることはそれ即ち人間の思考を論ずることに一致する。(ここで、言語とは記号一般の意味で、意味としては広い。絵画などによる抽象表現も含んでいると思って読んでほしい。)

この文章では、「噓のつき方」について論じる。というか、「噓のつき方」について論じた様々な人物や概念を紹介したい。それらは一見全く関連性がないように見えて、全て繋がっているというのが私の見方で、そのperspectiveをみなさんと共有するのが本文の目的である。

以下、人物に敬称はつけない。が、全員をリスペクトしていることはここに記しておく。

Case1:島田紳助の場合

『松本紳助』・『松紳』という伝説的な番組があった。松本人志と島田紳助がトークをする、そんな番組である。

その中で、「トーク術」について紳助が語る有名な場面がある。ここではそこで語られるテクニックを、トークを抜粋して紹介する。

経験もしてないのに噓ついて喋ってる時って、「映像」を喋ってるよな。
経験してないことバーっと喋ってる時って、漫画みたいに目の前にスクリーンがあって絵が見えてるんですよ。だから、それ噓やねんけども、「お前じゃあそれ何色やねん」って聞かれても、聞かれてから「えーーっと、、黄色!」と言うんじゃなくて、もう初めから「黄色」なんですよ。だから、何を聞かれても全部答えられる。
例えば噓をついたら噛むのよ。辻褄合わへんようになったり、言葉が詰まるのよ。ところが、目の前のものを「はいどうぞこれ説明して」って言われたら、「これ紙ですわ」、「これプラスチックですよね」、「これコップです」とか「アイスコーヒー入ってますわ」って説明していったら噛まないじゃないですか。それと同じように、目に見えてるもの喋ってるから噛まないな。

紳助は噓をつく際、「映像」を思い浮かべて、それを見たまましゃべるのだという。そうすれば細部を突っ込まれても答えられるし、辻褄が合わないこともないし、すらすら喋ることができるのだと。

これは他にも、道順を教えるときに使えると紳助は言う。地図をただ追うのではなく、自分が歩くときの風景を伝える。そうすれば伝わりやすいのだ、と。

芸人は話を盛る生き物である。そしてそれは、脳の中で勝手に面白い方へ映像が動いてしまうからだと紳助は語る。見たままそのままよりも、脳が勝手に加工してしまう。そしてそれを喋るから結果的に話はどんどん盛られていく。

このあたりの一連の話は普遍的なトーク術として使えるが、ここでは「噓のつき方」だけに着目する。

島田紳助は、「映像」を思い浮かべながら噓をつく。

Case2:尾田栄一郎の場合

説明するまでもないだろう。漫画『ONE PIECE』の作者である。

私は熱心な『ONE PIECE』の読者である。もちろん映画『ONE PIECE FILM RED』も三回観た。

その三回目の視聴は、どちらかというと映画を観に行ったというよりも、副音声を聴きに行った。誰の副音声か。監督である谷口悟朗と原作者である尾田栄一郎の副音声である。これを聴かない理由が、私にはなかった。

その中で、思わず拍手をしてしまった尾田栄一郎の発言があったため、正確には覚えていないが、以下のサイトを参考に、大体のニュアンスを伝えたい(私がここに書かれているようなことを聴いたのは事実なので、このサイトの信憑性はある程度あると思っていい)。

Q.「コレも何かの縁か」シャンクスとロジャーの出会いは今後明らかになる?

A.シャンクスの人生はガチガチに決まっているが、まだまだ”空き”はある。娘を出したいと映画スタッフに言われた時に計算して、シャンクスの知らない部分を原作者自身が知っていくイメージ。シャンクスが20歳のころにウタをみつけたことにしないと話のつじつまはあわない(尾田)

なんてことない解答かもしれないが、私にとってはかなり衝撃だった。というのも、矛盾が少ないことで知られる『ONE PIECE』の、プロットの作り方を垣間見たような気がしたからだ。

普通だったら、「シャンクスの考えていなかった部分を今回新たに考えた」と言えばいいはず。作者こそが創造者であり、作品世界における神なのだから。

しかし、微妙に異なるニュアンスで尾田は語る。「シャンクスの知らない部分を原作者自身が知っていく」のだと。これは何を表すか。

つまり、尾田栄一郎は創作の根本のところでは、仮想的に「ONE PIECE世界」というものの存在を隅から隅まで仮定して、その中での出来事を「創る」のではなく「知り」、それを絵にすることで漫画にする作家だということが、この発言から分かったのだ。

少し大袈裟かもしれないが、少なくとも尾田栄一郎の創作論として上のような考え方が一ミリもなければ、副音声でのあの発言は出てこないのではないだろうか。

物語を「創る」のか、物語世界を「知っていく」のか。些細な違いだと思うかもしれないが、この思想の違いは、とくに『ONE PIECE』の無矛盾性を語る上ではかなり重要だ。

設定の後付けは悪ではない。むしろ、尾田栄一郎はそのプロットの精密さのイメージに反して、割とその場のノリで大きく展開の舵を切るタイプの作家である。具体的に言えば、ミス・ウェンズデーはもともとアラバスタ王女の設定ではなかったし、アラバスタのラストシーン(×のやつ)もその週に思いついているし、11人の超新星だって急遽考えたキャラである。

そんなタイプの作家であるのに、なぜこんなにも矛盾点が少ないのか。それがこの「世界全体の存在を仮定し、イメージして、その中での出来事として知ろうとする」姿勢にあるというのが私の見方である。
単発の出来事を後付けするのではなく、その周辺の出来事全てを仮定し、イメージして、そのどれとも齟齬が生じないような形で現れる展開や設定を、「知る」。

この思想は、潔癖なまでに設定された一つ一つのキャラの細部からも伺える。ある程度のネームドキャラについては、好物や嫌いなものまで設定し尽くすのが『ONE PIECE』であり、マニアはその知識のインプットに余念がない。これも、そのキャラをただ登場させるのではなく、その世界の住人として知り尽くそうとする姿勢の表れではないだろうか。

「キャラが勝手に動いた」と語る漫画家は少なくないが、「世界全体を想定して、その世界を知っていく」とまで語る漫画家は少ないのではないか。
元々『ONE PIECE』は、矛盾のないプロットで漫画を描きたいという尾田栄一郎の実験作でもある。その実験の裏にこんなにも筋が通った思想・創作観があったというのは、驚きと同時に大きな納得感がある。

尾田栄一郎は、その「世界」を知っていきながら、漫画を描く。

Case3:岸辺露伴の場合

漫画『ジョジョの奇妙な冒険』に登場する架空の漫画家である。私の、全架空キャラクターひっくるめて、一番好きなキャラクターでもある。

彼も、尾田栄一郎とは全く違ったアプローチではあるが、漫画における「リアリティー」を追及する作家である。

気味の悪い描写であったり、摩訶不思議な描写であったり、漫画には読者を驚かせるような描写が不可欠だ。それを空想で描くこともできるのだが、露伴は極力自らで「体験」をするために取材に赴く。蜘蛛を舐めてみたり、妖怪伝説のある山を丸ごと買ったり、まぁメチャクチャである。

漫画は当然だが、1から100まで全てがフィクションである。リアルではない。しかし、だからこそ、その中で表現されるものには作者のリアリティーが反映されていなければ、読者を惹きつけることはできない。そういった思想で露伴は漫画を描いている。

岸辺露伴は、自らの「体験」を投影して、漫画を描く。

強固な噓のために、世界を先に想定せよ

(まとめの章ですが、少し抽象がすぎて退屈かもしれません。先に言っておくと、ここの文章はかなりウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に影響を受けています。少しでも触れたことがあればすんなり読めるかと思います。)

我々が生きるこの〈現実世界〉は、「現実に成立していることの総体」である。

それに対して我々は言語を用いることで、現実に成立していることはもちろん、現実に成立していないことまで言い表せるようになった。そう、〈噓〉がつけるようになったのである。

噓、というとなんか後ろめたいような、負のイメージが付きまとうが、虚構やフィクションと言い換えても構わない。とにかく、現実に成立している事柄をそのまま言語で言い表さなくても良いという性質こそが、言語の特筆すべき性質である。

まず現実世界がある。そしてそれを抽象的に表現する言語がある。言語は箱庭的・ミニチュア的な擬似世界と言える。そしてその箱庭の中では、なんと現実世界とは異なる事態も表現できる。つまり、噓がつける。当たり前のことかもしれないが、一旦まずこの「噓がつけるという現実」に改めて驚愕してほしい。この特質によって人間はここまで発展してきたというのが、かの有名な『サピエンス全史』の主張である。

今、箱庭の方にだけ「噓的なもの」があるが、それに対応するように世界の方にも「噓的なもの」が想定されないだろうか。今風の言葉で言えば、現実世界とは異なるパラレルな世界を想定できないかということである。

例を用いて説明しよう。

「私の手の届く範囲にティッシュペーパーがある」という命題を考える。これは正しい。確かに私の手の届く範囲に今ティッシュペーパーがある(証明はできないが)。これは現実世界を単純に表現しただけである。

次に、「私の手の届く範囲にティッシュペーパーがない」という命題を考える。これは正しくない。単純に現実世界のみを考える立場なら、これはただの噓ということで片付けられるが、無数の並行世界を考える立場だとどうだろう。
「私の手の届く範囲にティッシュペーパーがない」ような全ての並行世界を考えることができる(途方もないが)。「私の手の届く範囲にティッシュペーパーがない」という命題はただの偽の命題というだけではなく、むしろそれを満たすような並行世界全てを指定するような文と思える。

その解釈だと、一つ目の正しい命題「私の手の届く範囲にティッシュペーパーがある」も捉え方が変わってくる。この命題は、やはりそれを満たすような並行世界全てを指定するような文と思うことができる。この解釈では、現実世界は単にその指定された世界の集まりの中に入っている一つの世界であり、他の並行世界とあまり区別がつかない(特権性がない)。この並行世界的な捉え方は、現実世界を絶対化するのではなく相対化して、他の並行世界と(見かけ上)平等に扱う捉え方である。

「命題・文とは、それを満たす可能的な並行世界全てを指し示すような条件・制限だ」という捉え方を説明した。
ここで、命題を「かつ」で結んでいけば、もちろん制限は厳しくなり、それを満たす可能的な並行世界全ての領域はどんどん小さくなっていく。

「かつ」で結ぶ命題として極端な例を見よう。

「私の手の届く範囲にティッシュペーパーがあり、かつ、私の手の届く範囲にティッシュペーパーがない」という命題を考える。これが指し示す並行世界はどんな世界だろうか。
・・・
そんな世界はどうやったって考えられないだろう。この命題からは、「私の手の届く範囲にティッシュペーパーがある」という命題と「私の手の届く範囲にティッシュペーパーがない」という命題が、「かつ」の定義から双方演繹される。当然だが、それら二つを同時に満たす世界など想像できようもない。つまり今回は、「条件が厳しすぎて、ついに指し示す並行世界が0個になったパターン」である。今回のように、その命題から肯定的な命題と否定的な命題が同時に演繹されることを〈矛盾する〉という。

並行世界を考えずに現実世界のみを絶対化するはじめの立場では、この命題もただの偽の命題として処理されることに注意しよう。この立場では、
「私の手の届く範囲にティッシュペーパーがない」

「私の手の届く範囲にティッシュペーパーがあり、かつ、私の手の届く範囲にティッシュペーパーがない」
はどちらも単に「現実世界に反している」という粗い見方しかできない。
前者は別にその命題自身が矛盾を孕んでいるわけではない。現実世界と比べたときにそれに反しているだけ。それに対して後者はその命題自身で矛盾している。この差を、現実世界のみを考える立場ではうまく検出できない。

ここまでの話をまとめると、その命題自身の矛盾を検出するには、無数の可能的並行世界を考える立場の方が良いということである。これを主張するためにちまちまと例を述べてきた。

もう少し詳細に述べるなら、「矛盾する命題が指し示す並行世界は存在しない」ということが今までの話からわかった。対偶的な考え方をすると、「その命題が指し示す並行世界が一つでも存在するなら、その命題は無矛盾である」ということがわかる。

噓の話に戻ろう。噓には、すぐバレる噓と、すぐにはバレない噓がある。脆い噓と、強固な噓とがあるということだ。

噓つきシチュエーションとして、ここでは話し手のポーカーフェイスが完璧で、聞き手はその内容に関する前提知識をほぼ持たないものと設定しよう。これはかなりバレにくい設定である。
こんな設定でもバレるときとはどんなときだろうか。上で述べたような、「それ自体が矛盾を孕んでいる」ときである。これはどんなに聞き手に前提知識がなくとも、論理的に現実で起こり得ないと断言できてしまう。「矛盾する命題が指し示す並行世界は存在しない」ので、とくに、現実世界も指し示さないという論理である。

また、あまりにも守りに入ってフワッとしたことを言うのも怪しい。ある程度細部まで細かく話し、それが示す並行世界領域を極力絞るような努力はするべきだろう。何せ、現実世界はただ一つしかないのだから。細かく語ろうと思えばいくらでも細かく語れるはずである。

と、いうわけで、強固な噓をつきたいときは、それ自体が矛盾を孕まないようにするべきだし、その上である程度細かく語る必要がある。そのためにはどうすればよいのかが本文での主題であった。

結論:その噓を満たすような並行世界を仮定し、できる限り具体的に想像せよ。

この結論に、角度は異なれど、様々な著名人が辿り着いてきた。そのことをこの文章では紹介した。

島田紳助は、「映像」を思い浮かべながら噓をつく。

尾田栄一郎は、その「世界」を知っていきながら、漫画を描く。

岸辺露伴は、自らの「体験」を投影して、漫画を描く。

全ての人物が、フィクションを記号的に作り出す際に、直線的に記号を紡ぐのではなく、一旦、架空でも現実でも「世界」を想定して、それを五感で知覚する工程を踏んでいる。遠回りかもしれないが、そのようにして紡がれたフィクションは、とても強固で人を惹きつける。上の三者を見て、ある程度の説得力は感じ取れるだろう。

CaseX:一階述語論理の場合

これは学問的な話になってしまうが、数学の基礎となっている論理学の世界でも、この思想を反映した定理があったりする。

難しいことを省いて主張を述べるなら、

無矛盾ならそれを満たす世界が作れるし、それを満たす世界が作れるなら無矛盾

という定理がある。これはまさに、上で述べたような話と合致する。

箱庭の中での無矛盾性と、その箱庭が指し示す世界の存在。日常の文脈でも学問の文脈でも、これらは根本的に関連していることがわかる。

抽象と具体を行き来して

言語・論理とは、箱庭的であり、抽象の象徴。
世界(現実・並行)とは、物質的であり、具体の象徴。

人間が抽象のレベルであれこれ記号を操作する際、ついつい具体的なこととの連関を考えずに処理してしまうことがある。そうするうちに、行為者すら袋小路に迷い込むこともしばしばある。
本文で述べた「噓のつき方」は、もっと一般に、抽象的な操作をする際には常に具体性を少しは意識せよという普遍的な教えに拡張できる。数学の道を志す私にとってはゼミなどに直接応用できるとても重要な教えである。みなさんにとってはどうだろうか。プレゼンをする際に、より身近な問題との関連性を取り上げてみるだとか、マニュアルを作るときに一回自分がその行動をやってみるだとか、些細ではあるがそういったことに応用できるかもしれない。
そしてまさに、今のように応用例を考えることこそが、メタ的ではあるが「抽象的な操作をする際には常に具体性を少しは意識せよ」という抽象的な操作について、応用例という名の具体性を意識することになっている。なかなかに普遍的で素晴らしい教訓ではないだろうか。


世の中が、優秀な「噓つき」で溢れることを願って。

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