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2021.9 兄のこと

 8月の夏休みに都内に住む兄に会いに行った。ワクチン接種は二人とも2回目が済んでいる。気兼ねはない。
 途中で買っていったコンビニ弁当を二人で食べ、兄がサイホンで入れてくれたコーヒーを飲みながらお互いの近況を話した。
 母の入院はもう1年以上になる。去年の5月に大腿骨を骨折して入院。コロナ禍で面会はままならず、ちょうど1年前に時間を制限されて会ったきりである。九十四歳になる母の認知症は一気に進んでいて、もう息子が誰かもわからず、孫の写真にも反応を見せず大変なショックを受けたことが忘れられない。
 歩行機能を失い、拘束帯に縛られることもあるようだ。だが不自由さを母が訴えることはない。
 母と同居していた兄は「できることなら連れて帰りたい」と言うが、二十四時間の介護を一人でやり切れるものではないだろう。
 私の長女には今年6月に二人目の子供が生まれた。一歳半を過ぎた上の子は走り回り、娘はてんてこ舞いの毎日を送っている。
 次女は七月に転職したばかりだが、会社がどこにあって、どんな仕事で、仲間たちとは仲よくできているかを詳しく知らない。コロナ禍にあって娘たちともなかなか安心して会うことができないでいる。
 結婚しなかった兄は姪っ子たちを小さい頃からよくかわいがった。正月にはみんなで集まり、夏には旅行に行ったこともある。できる限り娘たちの近況を伝えた。赤子の誕生を喜ぶ顔を見ると、離婚しても娘たちを育てた苦労が報われる思いがした。
 話は地元のウイルス感染者数から政権の対策、そしてオリンピックと広がり尽きることがない。気がつけば外は薄暮になっていた。
 「夕飯食べていきなよ」と寿司の出前を取ってもらいご馳走になる。
 わが兄弟は母子家庭に育った。母は保険の外交で時間が不規則であり、私の保育園のお迎えは兄が担っていた。
 私はいつも青っぱなを垂らしていて、よく兄が拭き取ってくれた。まあそんな弟を連れて歩く恥ずかしさがあったのかもしれないが。
 中高のときは、六つ違いの兄が身近な大人として人生を学ぶ父のような存在だった。道を踏み外さなかったのは兄あってのことだ。
 次女の進学で相談したのは十数年前。高卒後、就職していた次女が突然専門学校への進学を言い出した。長女は大学在学中で、私は入院中だった。どうにも入学金の工面がつかない。頼れるのは一人だけだった。
「お金を借りたい」
「いくらだ」
「百万円」
「わかった」
 こんなやり取り普通はない。これほどの大金が翌日には私の口座に振り込まれた。
 別に味を占めた訳ではないが、翌年も学費の都合がつかず同額を借金した。
 借金が二百万円に積み上がってみると、返済の大変さで途方に暮れた。
 二人が卒業したら、夏の旅行が済んだらと返済を先延ばしにした。だんだん億劫になっていき、喉元の熱さも忘れて身銭が惜しくなった。「チャラにしてくれないかな」と淡い願望を夢想するようになっていた。
 そんなとき「そろそろどうかな」とメールが来た。強制的なところがまるでない、遠回しの訴えだった。こんなメールを書かせてしまい申し訳ない。すぐに返済計画を伝え、その月から毎月の返済を始めた。最後の半年分はまとめて前倒しして、無利子だったが一ヵ月分をプラスして振り込んだ。このとき胸に占めたのは大切なものを失わずに済んだという安堵感だった。
 チャラになれば嬉しかっただろう。だけど一生後ろめたさは消えなかっただろう。いまのようにとても一対一で向き合えなかったはずだ。あのとききちんと返済して本当によかった。いまでもしみじみと思うのである。

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