したくてやってることを「優しい」と言われるとなんかやりづらくなる

こんばんは、夜になると急にnoteを書きたくなる準メンヘラのぼりです。

最近、あるお仕事のお誘いを頂いて、その内容がすごく嬉しいものだった。なんというか「ぼり」としてお誘いを頂いているといった感じ。

ぼくは料理人だしブロガーだしハイパーリバ邸の管理人なので、最近は特に「何がメインなのか周りから見たらよくわからない人」になっているのだけど、そのお仕事の依頼はそーゆーことも全部ひっくるめて「ぼり」としてのお誘いだった。

打ち合わせを進めているうちに、「あなたにメリットを返せる内容ではないから申し訳ない」というようなことを言われた。

結果的に内容はそのまま変えずに話を進めたので、最終的に「優しいですね」って言われた。

こうした時に気になるのは相手の心情で、「申し訳ない」みたいな気持ちが発生されるとこっちもやりづらい。

こっちはそれで納得してやっているから。ぼくは最初に出す条件で基本的に満足しているし、思いっきり「NOと言える日本人」なのでイヤだったらはっきりとイヤと言う。

だから、自分がちょうどいいと思ったことに関して「優しい」とかって言われるとなんかやりづらくなる。

「優しい人」とか「いい人」って言われる人は「自己犠牲してる」ってイメージがつきやすいと思うんだけど、ぼくは昔「いい人」って言われたくてそのイメージを守るような行動を心がけていた。自己犠牲を心がけていたのだ。

そしてしばらくして「いい人」のイメージが定着した頃には疲れてしまって、次は「いい人」と思われないように気をつけるというなんともめんど臭い奴だった。お恥ずかしい。

で、その経験を踏まえた上で今のぼくがある。
だから基本的に「いい人ぶる」ということは後々かなり消耗することを体で覚えているのでしっかりと避ける。

いい人とも悪い人とも思われてもいいから自分らしく生きているつもりだ。

なので、現在の生活の中で「いい人」と言われるとその時の「いい人でいなきゃ」って疲れていたときを思い出してしんどくなる。

人間、よく「メリットがないことはできない」という言葉を聞く。

これは本当だと思う。しかもぼくは本能的にこの、「メリット」を計算している人間だ。

ただ、メリットって「お金」だけじゃなくて「相手との関係性」だったり「好意を持った相手への行動」による自己満足も立派なメリットだと思っている。自分の心に都合のいい行動であれば表面的にはメリットのない行動だったとしてもそれは実はしっかりとメリットを与えられている。

だからぼくは仕事で言うと、頂く金額の大小に関わらず、直感的に「なんかイヤだな」って感じる仕事はバッサリ断っている。

多分、終わったあとに「いい気分で帰ることができない」と直感的に感じているからだ。そんな仕事はしたくない。相手もこっちも幸せになれないし。

逆に、自分が帰るときに「いい日だった」って思って帰ることができるような内容の仕事だと思えたら割と直感的に引き受ける。そこにはお金ももちろん絡んでくる。

その上で帰るときに「ちゃんと働いたと思う分だけのお給料を頂けた」「なんかよくわかんないけどいいことをした」と心で思える仕事かどうかはしっかりと天秤にかけている。

別に考える頭がない人間ではなく、むしろしっかりお話をする中でぼくが納得のいく条件を提示している。

ぼくは「いい人」ではないし、しっかりとメリットも考えている。

だからこそ、したくてやってることを「優しい」と言われるとなんかやりづらくなる。


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