昭和7年秋、札幌の寺田寅彦

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002/120 2016年10月

昭和7年秋、札幌の寺田寅彦

 寺田寅彦 (1878―1935)は1932(昭和7)年秋、その生涯において最初で最後の札幌滞在を終え、東京へ帰ってほどなく札幌に住む門下生中谷宇吉郎 (1900-1962)宛に書簡を送っている。

「十月十五日(土) 中谷宇吉郎 消印午後4時―8時
   本郷区駒込曙町二四より札幌市南一条西二十丁目 中谷宇吉郎宛
「御手紙難有拝見致しました。又写真を沢山難有う御坐いました、珍らしく機嫌のいい写真ばかりで、かういふのは今迄自分でも見た事がありません 余程当時幸福を感じて居たものと思はれます。家内の評判によるといろいろの特徴がそれぞれの写真に出てゐるさうであります。焼き増しを願ひ度いのがあるさうで、あとから願出る事と存じます。」 タイムス写真班は大騒ぎであつても結果はちやんと新聞に顔が出たのだから事実上少生のまけであります。まけても仕方はありません、
講義を新聞へ出す事は此れは困ると思ひます。あれはあの時断つた通知識を与へる講義でなくてプロブレムを暗示する講義ですからあれを大衆に読ませたら、それこそとんでもない誤解を起させるばかりで何の役にも立たぬのみか害毒を流すだけと思はれます。唯十分な批判力を具えた諸先生や学生方にはいくらか有益であらうと思つたのであります。それで新聞掲載はどうか御勘弁を祈ります。唯北海道が地球物理学的に非常に面白い処だから北海道大学で大に研究してほしいと云つた事だけは出してもかもひません (後略)」(『寺田寅彦全集 第二十九巻 書簡 5―昭和6年(1931)〜昭和8年(1933)』 岩波書店 1999)

 タイムス(札幌に本社を置く、当時の日刊地方新聞「北海タイムス」)写真班がどんな大騒ぎをして寅彦と勝負をしたのかは定かではないが、寅彦が「まけ」を認めた写真付きの新聞記事は次のようなものだった。
 北海タイムス、昭和七年十月七日朝刊、7面。

 「『地球物理学』と夏目さんの弟子 寺田博士の札幌礼讃
吉村冬彦の文名では其随筆集の一節が小学校の読本などにも載つて居り一般にも有名な地震学の権威東大教授寺田寅彦博士が北大理学部の特別講義に招かれ来札した 地球物理学といふ六ヶ敷い専門の講義であるが『日本の国土はどうして生れたか』といつたくだけた題目を掲げて漫談式な講義振りは頗る好評を博している
◇ ◇
仙台以北は全くの初旅だといふのですべての風物が珍らしく『いや実に変つてゐる』『札幌の花の色は実に綺麗だ』といつた率直な感嘆辞を呈しながら語る

長万部あたりの汽車の窓から見ると山間の道路に殆ど人が通つてゐるのを見受けない、あれが関東あたりだと必ず自動車が飛んでゐたり紅いパラソルなどさへ眼に入る處であるが、今に熊が出て来るのではないかと思つたが熊はでなかつた
◆ ◆
札幌までやつて来て実に北海道は広いと思つて地図を見て見るとまだほんの凧の尻尾の處を来てゐるに過ないので此の奥はどんなに広いのか想像がつかぬ位だ、札幌の樹木はいい 第一樹が大きくその下のローンも美しい 円山で花園を見せて貰つたが鶏頭の花の色が目立つて美しくダリヤなども花が大きいのに驚いた、札幌の街は通が広くそれから何條の何丁目と町名があるのに家がポツポツしか建つてゐないのが珍しかつた、トタン屋根壁がみんな板壁になつて居り壁土を見せてないのも目につく

等々 その印象は流石に細く溌剌といてゐた
◇ ◇
文士新居格は此の頃『現代随筆論』を書きその中に『吉村冬彦氏のものに至つては全く比ちうを見ない独特の色と香りをとを持つてゐる』と推賞してゐるが、その話を持ち出して博士の文歴を訊くと

私は五高時代夏目さんに俳句を習ひ例の『猫』が出る前夜先生の千駄木町時代、高濱虚子氏などと文章会といふのが先生の家で開かれた頃私も、その会に加はり物を書きはじめたのだが、その頃のものを今ひつぱり出して見るとセンチメンタルで自分でも鼻もちがなりません

それから漱石未亡人口述の『漱石の思ひ出』などが話題にのぼつたが実際其思ひ出を繙いて見ると博士の名は吉村冬彦の仮面でなく寺田寅彦の裸のままで随所に活躍して居り博士の今日の文名も偶然でない事が分る(写真は山形屋に於ける博士)」

 この札幌行き帰りについては、寅彦本人・中谷宇吉郎・寅彦の長男寺田東一がそれぞれに文章を残している。タイムス記事の「大騒ぎ」に比較すると、三者三様ながらさすがに落ち着いた内容になっている。中谷・東一両者の文章は、札幌旅行の三年後1935年年末に死去した寅彦の没後追想文であることもあろう。
 寅彦本人の文章は「札幌まで」と題され、東京帰着間もなく10月中に発表された。

 「九月二十九日。二時半上野発。九時四十三分仙台着。一泊。翌朝七時八分青森行に乗る。
(中略)
札幌で五晩泊った。植物園や円山公園や大学構内は美しい。楡やいろいろの槲やいたやなどの大木は内地で見たことのないものである。芝生の緑が柔らかで鮮やかで摘めば汁の実になりそうである。鮭が林間の小河に上って来たり、そこへ熊が水を飲みに来ていた頃を想像するのは愉快である。北海道では、今でもまだ人間と動植物が生存競争をやっていて、勝負がまだ付いていないという事は札幌市内の外郭を廻っても分る。天孫民族が渡って来た頃の本土のさま、また朝鮮の一民族が移って来た頃の武蔵野のさまを想像する参考になりそうである。
札幌の普通の住家は室内は綺麗でも外観が身萎らしい。土ほこりを浴びた板壁の板がひどく狂って反りかえっているのが多い。
(中略)
帰宅してみると猫が片頬に饅頭大な腫物をこしらえてすこぶる滑稽な顔をして出迎えた。夏中ぽつりぽつり咲いていたカンナが、今頃になって一時に満開の壮観を呈している。何とか云う名の洋紅色大輪のカンナも美しいが、しかし札幌円山公園の奥の草花園で見た鎗鶏頭の鮮紅色には及ばない。彼地の花の色は降霜に近づくほど次第に冴えて美しくなるそうである。そうして美しさの頂点に達したときに一度に霜に殺されるそうである。血の色には汚れがあり、焔の色には苦熱があり、ルビーの色は硬くて脆い。血の汚れを去り、焔の熱を奪い、ルビーを霊泉の水に溶かしでもしたら彼の円山の緋鶏頭の色に似た色になるであろうか。
定山渓も登別もどこも見ず、アイヌにも熊にも逢わないで帰って来た。函館から札幌までは赤鱏の尻尾の部分に過ぎないが、これだけ行ったので北海道の本当の大きさがいくらか正しく頭の中で現実化されたように思う。この広大な土地に住む全体の人口は小東京市民のそれより少し多いくらいだそうである。どうも合点の行かないことだと思う。
北海道の熊は古い古い昔に宗谷海峡を渡って来たであろうと思われるが、どうして渡ったか、これも不思議である。大昔には陸地が続いていたのか、それとも氷がつながっていたのか誰に聞いてみても分らない。とにかく津軽海峡は渡れなかったものと見える。熊が函館まで南下して来て対岸の山々を眺めて、さてあきらめて引き返して行ったことを想像するのは愉快である。
寒い覚悟で行った札幌は暖かすぎて、下手なあぶなっかしい講演をやっていると額に汗ばんだ。東京へ帰ってみると却って朝晩はうすら寒いくらいである。そうして熊の出ない東京には熊より恐ろしいギャングが現われて銀行を襲ったという記事で新聞が賑わった。色々のイズムはどんな大洋を越えてでも自由に渡って来るのである。
市が拡張されて東京は再び三百年前の姿に後戻りをした。東京市何区何町の真中に尾花が戦ぎ百舌が鳴き、狐や狸が散歩する事になったのは愉快である。これで札幌の町の十何条二十何丁の長閑さを羨まなくてもすむことになったわけである。」

 中谷の文章は「札幌に於ける寺田先生」(昭和十八年四月)。寅彦の死後二年余りの時を経て発表されたものである。最近『寺田寅彦 わが師の追想』中谷宇吉郎(講談社学術文庫 2014)に収録され、読む機会を持ちやすくなった。

 「昭和七年の秋、寺田先生が、札幌の大学の臨時講義に来られたことがあった。
寒がり屋の先生が、秋に向けて北海道まで来られるというのは、先生一生のうちでも珍しい大事件であった。しかも講演の嫌いな先生が、三日間に亙って北大で臨時講義をされるというのであるから、余程の大決心であったわけである。
実は御長男の東一君が、その年の四月東大を卒業して、北大の物理教室へ助手として赴任していたので、そのことも先生の決心をうながすのに大いに役立っていたようであった。
その話は夏の初めからであって、八月末の手紙では「小生なるべく廿五日頃御地着の予定に致して居ります。題目は「地球物理学的に見た日本の国土」と云ったような事にして、なるべくオリジナルな事を話したいと思っていますが、七月、八月はずっと原稿かせぎに追われ、これから準備にかかるのですから、到底余り纏まったことは出来そうもない」という御たよりであった。
この年坪井忠二君が北大へ来て、地球物理の正規の講義は済ましてくれていたので、先生は本に書いていないことだけ話すつもりだと、大変な御元気であった。しかし「着早々病気でも起こすと大変ですから、今から養生専一にして謹んでいなければならないと存じます。丸で北極探険にでも行くような気持ちで緊張しているのは人が見たら滑稽かも知れません。しかし、何しろ、逗子へ行くのでも九州位へ行くような気持ちだから仕方ありません」と云われるのも、誇張ではなかった。
先生は真夏の間はいつでも元気であったが、九月に入るともう手足が冷えて困るといつも言っておられた。果たして九月になって「小生多分廿三日頃東京発道草を食いながら廿五日に札幌着のつもりであります。胃の方も今の処では大丈夫と思われます」という便りがあって直後、胃がぐずぐずし始めたようであった。そして追っかけて「小生十七日頃から少しばかり胃の調子が狂って大した事はないが、用心のため休んでいます。これはほとんど毎年気温の急降下と共に起こる現象で、養生すればあとは何でもありません」「もし今日にもすっかり気持ちがよくなれば兎に角、さもなければ四、五日位出発を延期した方が安全かと思われます」という風に、まるで「胃袋を風呂敷につつんで」そっとささげるように大事にしながら、北海道までの大旅行を敢行されたである。今から考えて見ると、随分無理なことを頼んだものであった。
結局九月二十九日にいよいよ出発ということになった。その前日朝鮮の安倍能成さんへ「札幌へ行くのが何やかやで延び延びになっているが明日あたりからだの具合がよかったら出かけるかも知れません。どうしてこうも旅行がおっくうなのか自身ながら可笑しい位であります」と手紙を書いておられるが、その何やかやの中には、田丸先生の死という相当深刻な問題もあった。というのは先生が最も敬愛しておられた田丸先生が、日本式ローマ字論の浮沈を決する席上で、病を押して長時間の講演をされ、その為に急にその二十二日に亡くなられたのである。安倍さんへのこの手紙にも「昔からの先生田丸卓郎先生が亡くなられました。先生は御自分のからだを無茶に虐待して仕事の為、人の為に犠牲になって倒れたような気がする」という言葉がある。
こう云う騒ぎで、札幌行が実現することになったのであるが、その蔭には、何といっても東一君の札幌での生活を見たいと云う気持ちが、強い支持となっていたものと思われる。東一君が大学を卒業された時の先生の喜び方は大変であった。
「この老父も御蔭様にて一安心致しもう自分などはどうなってもいいような気持ちが致居候」というような一面が先生にはあったのである。
(中略)
大学の講義は、三日間あって、一日に二時間ずつ三回ということになっていた。その講演草稿は、全集第十七巻の雑記帳の部に納められている。欄外に「坪井君の講義、既知の事、余の講義未知の事、地質学者と地球物理学者の立場」と書かれているように、その講義は如何にも先生の独創の粋を集めたものであった。ちょうど坪井君が正規の地球物理学の講義を済ませてくれた後だったので、特に先生が気を配られたのである。
(中略)
先生の札幌滞在中は、運よく天気がよくて、毎日のように透明な青空に日光が暖かく、十月の秋晴れに恵まれた。
札幌の自然は先生の気に入ったようであった。処女林の秋色や、大通のサルビアの新鮮な赤さを讃美された言葉が、沢山その頃の手紙に残っている。植物園や円山公園の緑の芝生が「柔らかで鮮やかで摘めば汁の実になりそう」なのもひどく喜ばれた。教室の連中や東一君らと、一緒にその芝生の上を歩かれた。そして写真嫌いで有名な先生が、沢山の写真を残された。
後でその写真を送った時の返事には「珍しく機嫌のいい写真ばかりで、こういうのは今まで自分でも見た事がありません 余程当時幸福を感じていたものと思われます」と書いてあった。そして追っかけて「小生御地で写して頂いた写真複写」「急ぎませんから今度御ついでのあった時左記の通り御願い致したいと存じます
○富永さん玄関前で富永さんと並んだの   6
○植物園で右向きに口を明いて馬鹿面をしたの   1
○植物園、右向いて歩いているので両手を背へ廻しスケッチ帳とシガレットを持ったの、帽子あみだ  1
○花屋さんで、左向き、後ろ手に風呂敷包 前面に鎗鶏頭   1
という手紙が来た。「大分慾張っているようですが御寛容を祈ります」という文句を読みながら、先生の写真嫌いを思い出して、まあよかったと思った。
花屋さんで、前面に鎗鶏頭というのは、円山公園の裏にあった採種園での写真である。夏中空気が比較的透明で、紫外線が強く、その割に熱線の少ない北の国では、花の色が眼のさめる程鮮やかである。先生はそのまぶしいような鎗鶏頭の花畑の中に、随分長く立ち停まっておられた。そして「僕は若い頃に、花畑を作って暮らそうと思ったことがあったが、こういう花を見ると、またそんな気になるね」と半分は自分に言われるように小声で話された。
(中略)
先生の随筆『札幌まで』の中には、この鎗鶏頭のことが書いてある。「彼の地の花の色は降霜に近づく程に次第に冴えて美しくなるそうである。そうして美しさの頂点に達したときに一度に霜に殺されるそうである。血の色には汚れがあり、焔の色には苦熱があり、ルビーの色は硬くて脆い。血の汚れを去り、焔の熱を奪い、ルビーを霊泉の水に溶かしでもしたら彼の円山の緋鶏頭の色に似た色になるであろうか。」
この円山の花畑も今は無い。先生が訪ねられた次の年かに、花畑は化して大運動場となった。そして現在は国民服の若い人たちが、そこで鍛錬を受けている。
(中略)
五日間の札幌の生活は、先生の御気に入ったようであった。自然も風物も「すっかり気に入り」札幌の生活を「ハイカラ」とも感じられた。
大学では東一君の実験を見たり、教え子たちが一人立ちで仕事をしている姿も見られた。大沼公園の附近に膨大な地所を持っている池田教授は「先生北海道へ別荘を作られれば土地はいくらでも差し上げます」などと冗談を言ったりした。高嶺先生への絵はがきの中には「是非一度御来遊になって別荘を御作りになっては如何です、千坪二千坪は只でくれるという人があります」とも書かれている。
帰りは途中によらず、真っ直ぐに帰られた。その方が結果が良かったようである。帰京されてすぐの手紙には「帰り道は大変に近いような気がしてちょっと驚いている処であります。三日掛かりで行った道を一晩ねた切りで帰ったせいもあるかと思われます。郷里土佐よりは兎も角札幌の方が心理的に近くになりました」と書いてあった。
先生の「北極探検」もこのようにして、芽出度く成功し、私たちも大安心をしたのである。  (昭和十八年四月)」

 寺田東一が父の札幌旅行に触れているのは「中谷先生と父寅彦」という文章の中で、こちらは恩師中谷宇吉郎と父寅彦の双方に対する追想文である。戦争の記憶も薄れつつある、1966年に書かれたものだ。

「中谷先生がはじめて人工雪の製作に成功されて、色々の型の雪の結晶の生長の条件を明らかにされたのは、もう三十年近くの昔になる。父寅彦が亡くなったのは昭和十年のことで、この朗報に接することは出来なかったが、父の先生宛ての手紙(昭和九年四月二十四日付)には「雪の研究を総がかりでやる作戦計画は至極能率よろしくと存じます。これをもって諾威(ノルウェイ)の北光(オーロラ)に対抗させるも宜しく兎に角日本の大学では無敵であります。千円の研究所は一寸愉快それも天下比類なしと存じます。」とあるように、父は雪の研究には多くの期待を寄せていたらしい。
父が中谷先生と深い交渉を持つようになったのは、大正十三年先生の大学の後期の卒業実験の指導を受持ってから亡くなるまでの十二年間程であるが、その間の事情は中谷先生の「先生を囲う話」「寺田寅彦の追想」その他数篇の随筆や、寅彦の日記書簡によって色々と推察される。この十二年間の父の書簡で全集所載のものは約一三八〇通であるが、そのうち(連名、寄書きのもの含めて)中谷先生宛てのものは約一一〇通で、これは数からいって、小宮豊隆先生宛てのものに次いで多量である。残念なことに、両先生の父宛ての書簡は戦災ですべて亡失してしまった。中谷先生が大変筆まめであり、留学中の先生に対する返信に「毎度御手紙色々面白い御通信を難有う」などと書いてあるところを見ると、なおさら残り惜しいことである。
父は大正八年に胃潰瘍の出血で倒れて、二年間療養生活を送り、大正十一年からポツポツ大学に出はじめた。十二年の震災の調査活動などを期として次第に元気を回復し、十三年になると、年末の日記の後書きに「要するに今年は、数年来眠っていた活力が眼をさまして来たような気がする」と書くまでになった。なおその年の主な事として二十五の項目を掲げてあるが、その第一項には「理化学研究所の所員となった事、中谷君を来年から助手に内約云々」とある。このとき父は四十六歳で、中谷先生とは多分二十二歳の違いであった。大学を離れ理研でのびのびと研究できるようになったときの最初の御弟子として中谷先生が来られたことは、父にとっても大変幸福なことであったと思う。
父が特に中谷先生に嘱望していたことは色々な点で明らかであるが、振返ってみると、この二人には不思議な、因縁的といってよいような共通点があったように思われる。
共に文才に恵まれたこと、夫人をなくしたこと、二人とも四十歳前後に胃潰瘍、肝臓ジストマと種類はちがうけれど大病をしたこと、最後に比較的若くて、悪性腫瘍で亡くなったことなど。しかしまた一方では、中谷先生と父とでは性格から見て、ずい分違う点も見られる。父は自称するとおりいささか引込思案、おっくうがりの点があって、社交的とは云えないところがあったけれども、中谷先生はすべてに積極的で、まめで、対人的交渉が得意で、また非常に話術の才能に恵まれていられた。この話術の点は先生の学生時代の随筆「御殿の生活」によると、すでに小学生の時代から恵まれていたらしく思われる。旧藩主の別邸で奥方や奥女中を相手に度々お伽噺をして聞かせたという追想記である。中谷先生が非常に才能に恵まれていたために、一部には才子と評する人もあったようであるが、先生は軽薄な点は微塵もない善意の人であった。
昭和七年から五年間、私は先生のもとで助手を勤めるようになったが、その際の事情にも、またその就職した七年の秋に父が札幌まで足を伸ばし北大で臨時講義をするようになった事情にも中谷先生の善意に充ちた処置が見られる。この旅行の際に先生が愛用のライカで父を撮られた数枚のスナップは、父の礼状に「写真を沢山有難う御座居ました、珍らしく機嫌のいい写真ばかりで、こういうのは今迄自分でも見たことがありません。余程当時幸福を感じて居たものと思われます。」とあるとおりで、我家の貴重な記念品となっている。
当時先生は札幌の西のはずれ近くの白樺の二、三本植わった家に母堂、夫人、二人の令嬢それに令妹と住んでいられた。研究室の連中と夕食の御招きを受け、先生御手づからサラダをドレスして御馳走されたこともある。当時の先生の服装で思い出すのは英国仕込のスパッツとか称する、靴の上部を蔽うフエルト製のもので、風邪よけになるとかで愛用されていた。これをはいてやや大またに忙しく理学部の廊下を歩いておられた姿が目に浮かぶようである。
父とバイオリンの話は猫の寒月以来有名な話であるが、先生もあるときバイオリンを弾いて、ただし普通の倍位のスピードでさっさと弾いてしまって皆をあっと云わせたという噂を聞いたことがあるけれども、これは虚伝であるかどうか、いつ誰にどこで聞いたかの記憶も不確かな遠い昔のことになってしまった。」(昭和四十一年六月)


昭和7年秋、札幌の南部忠平

 2016(平成28)年9月18日、私は円山公園に足を運んだ。札幌滞在中の寅彦の足跡を辿ってみたくなったのだ。80年以上の時を経ているとはいえ、寅彦と中谷宇吉郎らが見た鶏頭の花の子孫が残ってはいやしないか、確認するもの目的の一つだった。鎗鶏頭がどんな花なのか、WEBで確認しただけで、現物を見ていないのも面白くない。幸い、寅彦たち同様、天候にも恵まれた。
 寅彦らが鎗鶏頭を見た場所は、中谷の文章によれば「円山公園の裏にあった採種園で」「先生が訪ねられた次の年かに、花畑は化して大運動場となった。そして現在は国民服の若い人たちが、そこで鍛錬を受けている」とある。今の円山総合運動近辺で間違いないだろう。
 『さっぽろ文庫12 藻岩・円山』札幌市教育委員会 編(札幌市 1980)にも、「昭和七年(一九三二)大倉山シャンツェが完成したことに呼応するように、円山公園のスポーツ施設を充実しようとする声が大きくなった。」「昭和七年に着工し、九年に竣工した。」(25p 俵幸三 文)という記述があり、建設時期について中谷文の内容と符合する。
 公園・総合運動場から北海道神宮境内まで小一時間散策してみたが、残念なことに結局鎗鶏頭は見つけられなかった。その一方で、新たな発見があった。寅彦や中谷の同時代人としての、南部忠平(1904‐1997)、その人である。
 野球場と陸上競技場の間を北海道神宮の方向に歩いていくと、南部忠平の顕彰碑に突き当たる。1971年に建立されたもので、塑像・デザインは南部の北海中学同窓生の本郷新(1905-1980)によるものだ。この日まで、そんな顕彰碑が円山公園内にあること自体知らなかったし、南部についても戦前の五輪メダリスト程度の知識しか持ち合わせていなかった。
 帰着後、南部忠平関連の文献にあたって、驚いたことがいろいろあった。まずその偉業とそのアスリートとしての資質の高さについて。南部に関して、私はまったく不明だったと言っていい。さらには、寅彦と南部の、因縁話めいた二つの偶然について。寅彦の来札と南部の凱旋帰札の時期が重なっていたこと、そして寅彦が足を運んだその場所に南部の顕彰碑が建っていることである。

 南部忠平は1932(昭和7)年秋、ちょうど寅彦と入れ替わるように、生まれ育った札幌に帰郷した。その年の8月4日ロス五輪において陸上三段跳びで優勝、世界新記録で金メダルを獲得しての故郷への凱旋である。ジャーナリズムの「大騒ぎ」は、寅彦の来札関連記事どころではなく、期間にして8・9・10月、札幌や北海道のローカル紙はもちろん全国的にその「戦果」が称揚され、一挙手一投足が報道された。
 そんなタイミングに寅彦は、南部の生まれ在所札幌にやってきたのである。冒頭に紹介した「『地球物理学』と夏目さんの弟子 寺田博士の札幌礼讃」タイムス記事掲載紙の次の頁には、「久子夫人と相携へ あす南部選手帰郷 昨日コッソリ青森着」という記事が載っているという状況だ。寅彦が札幌を発った3日後、10月8日午後3時29分に南部は札幌駅着、その晩札幌NHKのラジオ放送に生出演。北海タイムス紙10月9日朝刊9面の記事見出しは「『南部万歳』に湧き返る一万の渦 花嫁はこっそり琴似で下車 新郎ひとりで郷里札幌入り」とある。
 寅彦は、1932年8月13日 軽井沢の高嶺俊夫宛の書簡で「(前略)オリムピックで日本の勝つのはいやではありませんが新聞の態度は面白くありません。何もかもジャーナリズムの波に押し流される世の中ではあります。」と書いている。このオリンピックでの日本の勝利とは、南部忠平の優勝を指す可能性もあろう。札幌の地でも、寅彦は南部報道に辟易していたかもしれない。
 寅彦の札幌滞在中には、札幌今井呉服店(後の丸井今井百貨店)で「南部選手戦績展」が開催されている。とはいえそれを知ったところで、寅彦には面白味も興味も感じなかっただろう。北海道の自然や札幌の鎗鶏頭の美しさについて書いても、札幌出身の南部忠平の存在はもちろんそれにまつわるジャーナリズムの「大騒ぎ」について書くことはなかったわけである。
 1932(昭和7)年といえば、3月1日満洲国建国宣言(10月2日リットン調査団報告書公表)、5月には五・一五事件、7月31日ドイツ国会選挙でナチ党第一党、という年だ。翌年1933(昭和8)年1月30日にはヒトラー内閣発足、3月には日本は国際連盟を脱退する、という時代だった。
 寅彦は1932年3月21日小宮豊隆宛の書簡の中で

「今に日米戦争が始まつたら吾々も最早好きな事ばかりやつて居る訳には行かず、殺人器械の研究に没頭しなければならぬ事と思ひます。いつそ飛行機の操縦でも稽古して斎藤実盛気取で米機と空中組打でもやつてみようかといふやうな気がする事もある。此んな風な気のして居る人も存外少なくないやうに思はれるから不思議であります」

と予見している。
 オリンピックは国威発揚の大きな機会と捉えられており、新聞報道等のジャーナリズムの多くが日米間の闘争として競技を表現している。当時のオリンピックは、選手個々にメダルが与えられるのみならず、各国に与えられるポイントを競う国家単位の団体戦でもあったらしい。新聞記事には「日米対決」の文字が躍り、打倒米国の英雄として南部忠平を持ち上げる側面もあっただろう。
 そんな時代背景のもと、ロス五輪と同時期に札幌では「少年少女オリンピック」が、北大グラウンドにて開催されたという。会期は8月14・15日。これもまた北海タイムス紙上で大きく取り上げられている。開催直前に、地元札幌出身の陸上選手が本物のオリンピックで、欧米の選手を打ち破り金メダルを取ったわけだから、それだけでも大いに盛り上がったのではないか。
 ちなみに、そこに皇族の一員として臨席されたのが、澄宮こと現・三笠宮崇仁親王(1915年12月2日 -2016年10月27日)である。昭和天皇の弟君は当時まだ満16歳の少年で、競技に参加する若者たちと同世代だった。当然その北海道巡行もまた紙面に大きく取り上げられた。ちなみに、2016年10月中旬現在、三笠宮親王は100歳を越えてご存命で、改めてわれわれは地続きの歴史の中に生きているという思いを強くさせられる。
 さて、二人の間に共通点を見つけるのは難しそうな寅彦と南部であるが、おそらくはともに、世間の日米間の相克を煽る空気に関わらず、落ち着いて彼我の実力差を見極めていたと思われる。寅彦は科学の分野で、南部はスポーツの分野で。敵ではなく、むしろ尊敬すべき競争相手として、欧米列強の人々を眺めていたのではないか。書かれたものを読む限り、寅彦も南部もともに傲岸とか傲慢というような性質とは程遠いところにいる人間に見える。
 札幌訪問の三年後、寅彦はその57歳の生涯を閉じる。関東大震災による焼尽の東京を見たが、大東亜戦争による焼尽の東京は見ないで済んだわけだ。南部は凱旋帰郷の数年後、アキレス腱を痛め現役を退き、以後戦中・戦後にかけ、指導者・協会関係者・教育者としてその足跡を残すことになった。

 円山公園行きの翌週25日、私は大通公園に足を運んだ。鎗鶏頭が西4丁目の花壇にあると、植物に詳しい人から教えられたのだ。この日も天候に恵まれ、ついに鎗鶏頭との初対面を果たした。花壇はいかにも丹精込めて作られており、鶏頭はその「頭」をのびのびと、札幌の透明な青空に向かって、突き上げていた。
 寅彦も大通公園に足を伸ばしている。その当時とは比較にならないほどの大都市になった札幌の、ベンチや芝生の上に座る人たちの隙間を縫うように歩き、花壇により近づいて、鎗鶏頭の花群を、寅彦は見ることがなかった1956年竣工のさっぽろテレビ塔も画角に入れて撮影した。
 最後に寅彦の書簡をもう一つ引用して終わりにしたい(『寺田寅彦全集 第二十九巻』岩波書店 1999より)。寅彦門下生の一人、藤岡由夫への葉書である。大通公園展望写真が印刷された絵葉書で、寅彦文中の「此のプロムナード」が大通公園を指すのだろう。

「十月二日(日) 藤岡由夫 〔絵はがき 札幌市大通公園展望〕 消印3日函館旭川間下一便
 札幌より本郷区駒込西片町一〇 藤岡由夫宛
出発の際はどうも難有う御坐いました、存外元気で昨夜札幌着、今日は中谷君等の案内で植物園や郊外の公園を散歩しました 幸に天気がよく、此国特有の樹林の風光がすつかり気に入りました。(中略)
君も是非一度好季節を選んで遊びに来玉へ。処女林の秋色は実に美しい。尤もまだビールはのまないので此方の研究は帰京の上御報告致します。
〔裏に〕
此のプロムナードは銅像だけ除けば実に気持ちのいい処です。今サルビアの花は満開ですが花の色が東京では見られぬ新鮮な赤を見せて居ます 日の暮近くであつたせいかもしれない」

 札幌の21世紀の鎗鶏頭の風景が「日の暮近く」のものでないことを願うばかりだ。


昭和7年秋、札幌の寺田寅彦 ブックガイド
凡例 『書名』著者・編者名(出版社名 初版刊行年) / [田原のコメント]

【本文中に登場する本】[随時、追加・追記・修整します]

寺田寅彦
『寺田寅彦全集 第四巻 随筆 四 生活・紀行』
 (岩波書店 1997)「札幌まで」所載
『寺田寅彦全集 第二十九巻 書簡 5―昭和6年(1931)〜昭和8年(1933)』
 (岩波書店 1999)
『寺田寅彦全集 第十七巻 雑纂 年譜/目録』
 (岩波書店 1998)「北海道大学に於ける講演草稿(昭和七年)」所載

中谷宇吉郎
『寺田寅彦 わが師の追想』中谷宇吉郎
(講談社学術文庫 2014年11月10日 第1刷発行 『寺田寅彦の回想』(甲文社 1947 原本・一部割愛・改題) カバー写真「寺田寅彦(昭和7年、札幌にて。中谷宇吉郎撮影)」)

寺田東一
『父・寺田寅彦 くもん選書』寺田東一 他
 太田文平編(くもん出版 1992年)

札幌関連
『さっぽろ文庫12 藻岩・円山』
札幌市教育委員会 編(札幌市 1980)

【参考図書・関連本・田原のお薦め などなど】[随時、追加・追記・修整します]

寺田寅彦
『寺田寅彦随筆集』小宮豊隆編
(岩波文庫 全五冊)

[高校時代に全五冊読了したはず。再読してみると、いかに大きな影響を受けていたかがよくわかる。残念ながら「札幌まで」の所載はない。札幌の高校生だった自分が、その地で「札幌まで」を読んでいたなら、また違った人生を送ることになったような気もする。コンピレーションって難しい…。]

『柿の種』 (岩波文庫 1996年)
『寺田寅彦 漱石、レイリー卿と和魂洋才の物理学』小山慶太
(中公新書 2012年1月25日発行)

中谷宇吉郎
『科学の方法』中谷宇吉郎
(岩波新書 1958年)
『中谷宇吉郎:人の役に立つ研究をせよ (ミネルヴァ日本評伝選)』杉山滋郎
(ミネルヴァ書房 2015)
『雪』中谷宇吉郎
(岩波文庫 1994)

南部忠平
『南部忠平自伝』南部忠平
(ベースボールマガジン社 1964)
『南部忠平「南部忠平自伝」』人間の記録117(
日本図書センター 1999年12月25日 第1刷発行)
『栄光の三段跳び 南部忠平物語』川嶋康男
(北海道新聞社 1981)


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