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【踊る頭の中】「国民目線とずれ」以外の批判を獲得しないとダメだよなあ

1ヶ月前のこの記事について

https://mainichi.jp/articles/20201014/k00/00m/040/351000c

菅総理についてはここでは措くとして批判する側の人間として、「国民目線とずれ」という批判の言葉が現在においては意味を持たない気がしている。
(菅総理については僕はただ幼稚な人だなあとしか思えないしここでは書かない)
というのも、主語が大きすぎる。国民が仮に日本国内に住む選挙権を持つ人全員のことを指すとしたら、それは菅総理を批判しない人をも含むことになるからだ。でもどうやらそうではないらしく思える。このニュース「国民目線」と言っているのは北海道大の50代の男性教授となっているが、明らかに批判的な文脈であり、彼が自分の意見を仮託している国民は、菅総理の言動に批判的な人のみのように見える。

主語を仮託している時点で議論は空転する。批判の矛先は話している人が勝手に想像した何か大きなものになるため具体的な事象をもとにした話し合いができないからだ。結論は私は正しいから正しいを双方が言い合うだけのものになるように思う。

というか、毎日新聞も「国民目線とずれる」とかタイトルに入れるなよなあ。いい大人のやることじゃない。

自分の発言には責任が伴うと考える人が大人だと僕は考えるのだけれど、パブリックな場で「国民目線とずれる」と書くことで何かを言った気になることは大人のやることではないと思うのだけれども。

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