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レティシア書房店長日誌

池澤夏樹「きみのためのバラ」
 
 
旅に出るとき、例えば空港の待合で読むときなどにこんな短編集はいかがでしょう。喧騒と無縁の人々が紡ぎ出す物語が詰まっています。世界の片隅に散らばる詩情を引き寄せてくれるような本です。

 舞台はヘルシンキ、ミュンヘン、パリ、アマゾナス(ブラジル)、沖縄。ひっそりと起こる出会いと別れをストイックに描いています。私はヘルシンキを舞台にした父と娘の話が一番好きです。
「朝は十時近くまで暗い。午後は三時頃にはもう暗くなる。その後はずっと長い長い夜。闇とは大きな黒い重い雲のようなもので。三時になるとそれが空からしずしずと下りてくる。世界の天井はひどく低くなる。空気が足りないときに肺が悲鳴を上げるように光が足りなくて心が悲鳴を上げはじめる。飢えや渇きよりももっと切迫した窒息感のようなものが迫ってくる。」
 ヘルシンキに仕事でやってきた男は、遠く離れて暮らす小さな娘と年に一度旅をする父親と出会います。娘にソリで遊ぶと面白いよ、と言ったことから、男二人は親しく会話を交わすことになります。娘が遊んでいる間、ロシア人の女性と結婚したと言う父親が自分のことを話し出します。「妻はもちろんずっと日本で暮らすつもりで僕と一緒になったんです。でも何年かたってどうしてもロシアに帰りたいと言い出した。日本に飽きたとかあなたへの愛が薄れたとかいうのじゃなくて、やっぱり自分にはロシア以外に住めるところはないということがわかってしまった。」話を聞くうち、男も自分の中の孤独を静かに見つめます。ラスト、ヘルシンキの針葉樹の森を、一人ぽつんと眺める男の姿が印象的です。
 沖縄を舞台にした「連夜」も面白い一編でした、病院で働くごく平凡な青年斎藤君が、院内で人気のあるノリコ先生に突然声をかけられ、それから嵐のように求め合う十夜を経験する。そして、ノリコ先生から「今日でおしまい。この二人とも全部忘れよう。これっきり」と言われてしまいます。
 「自分の方から声をかけて、また自分の方からこんなことを言うのは本当に勝手だと思うかもしれないけれど、でもわかっってほしい(とあの人は言った)。決して気まぐれに男の子を釣ったわけではなくて、誰かと寝るのは本当に離婚の後で初めてだった。結婚している時だって、極く地味な性 生活。でも、あの時はどうしても斎藤君を抱いて、抱かれてみたくなった。自分が抑えられなかった。それはわかっているでしょ?」いきなり始まり、いきなり終わった二人の物語のラストは、余韻が残ります。
 世界のどこかで普通に生きる人々に起こる、出会いと別れを静かに描いた物語。むしろここに収録されている小説が、旅情を誘うかもしれません。




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