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幕間 11 ニグベリアの街にて


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 夕方の大通りを歩いていたジルケのもとへ、風が男の呻き声を運んできた。彼女はうんざりと顔をしかめ、娘の腰にまわしていた手をほどく。

「アー……ごめんよ、急用ができた。やっぱり今夜は付き合えない」

「えーっ、なんでぇ?」

 煽情的な衣装を纏った踊り子の娘は、猫のような瞳にありありと不満を浮かべ、ジルケを見上げる。ジルケは頭の横まで両手を上げ、後ずさった。

「ホンットごめん。この埋め合わせはいつかするから」

「今夜、してよ」娘は遠慮せず距離を詰めてくる。「洗いっこしながら聞かせてくれるんじゃなかったの? 冒険の話とか、ワルキューレ騎士団の話とかさぁ」

「ああするさ。でも今日はだめなんだ。あたしだって残念だよ」

「おねーさん、ユニコーン騎士団なんでしょ。明日には発つんでしょ。今日じゃなかったら、もう逢えないじゃん」

「その騎士団の同僚が、ちょっとマズってるらしくてさ。助けてあげなくちゃいけないんだ」

「ウソばっかり」

「本当だよ。そうでなきゃ、あんたみたいに素敵な子、手放すもんか」

 陳腐な言葉だが、本心だ。自由であることに全霊で感謝を捧げるような彼女の踊りは、心から素敵だと思えるものだった。

 娘は頬に空気を溜めてむっつりと睨んでいたが、やがて諦めと共にそれを吐き出した。

「そっかぁ……しょーがないね。また逢えるよね」

「逢えるさ。風があたしらを導いてくれる」

「気障なセリフ」

「お気に召さない? こういうのとか」

 ジルケは娘の手をとり、背を丸めて口付けた。上目遣いにウィンクしてみせると、娘はくすぐったそうに笑う。

「なんか恥ずかしいけど、悪くないかも」

「次はもっと素敵なキスをしたげるよ。いくらでもね」

「約束だからね」

 そう言うと、娘は笑って手を振りながら、来た道を駆け戻っていった。

 花びらを乗せて草原を渡る風のような笑顔だ。それを見て、きっと明日には忘れられているだろうな、とジルケは思った。それでいい。それがいいのだ、あの娘は。

 いつまでも見送りたい気持ちを断ち切り、ジルケは行き交う人の流れを躱しながら、細い路地へ向かった。

 陽の光から隠れるような緩やかな下り坂。両側の壁に染み付いた汚れからは、血と吐瀉物の臭いがする。よどんだ風が地を這う場所だ。

 その突き当たりに、人影があった。若い男が二人、うずくまっている男が一人。こんな所にひそむ連中の声なんか聞きたくもなかったが、風はジルケに頓着などしてくれない。

「シケた顔してる割に金持ちだなぁ、おっさん」

「おい見ろ。これユニコーン騎士団のメダリオンだぜ」

「ハッ! こんな情けないザマでかよ。こんなのが団員で本当に戦えんのか、魔物狩りの傭兵団様よぉ?」

「確かめてみるかい?」

 男たちは驚いた様子で振り返った。良くない酒に浸ってきたことが一目で分かる情けない顔へ、風に乗せた土埃を見舞ってやった。目を潰されて身もだえる男たちの、片方には鳩尾へ、片方には顔面へ、それぞれ拳を叩き込む。悲鳴と呻きは意識の外へ追いやった。

 ジルケは倒れ伏す男に屈む。

「帰るよ、アッペルバリ。立てる?」

「うあ……あ……」

 アッペルバリは涎と涙とうつろな声を漏らすばかりだった。ジルケは舌打ちし、彼の腕を肩に回してやる。

「おっと、そうだ」

 立ち上がる前に、男どもの手からアッペルバリの財布とメダリオンを取り返す。ついでに蹴りを一発ずつ喰らわせて、その場を後にした。

「ったく、だから言ったじゃないか。酒ならあたしが買ってきてやるから大人しくしてなってさ」

「す……すまねえ……」

 すすり泣くような声でアッペルバリは答えた。下衆どもに嘲られても仕様のない有様である。

 嬲られたからではない。先の任務で存外に苦戦し、酒を切らしたせいだ。酒精が体から抜けてしまうと、アッペルバリはいつもこうなる。四十を超えたオヤジのめそめそ声なんぞ趣味ではないから、こうなると嫌でもジルケが世話を焼かざるをえない。

「すまねえ……本当に……」

「いつものことだろ。ほら、いい加減自分の足で……」

「すまねえ……マリア……すまねえ……」

 目線を下に向ける。アッペルバリはだらりと項垂れたまま、ぶつぶつとそればかり繰り返した。

 ジルケは大きく息を吐いた。

 マリア。知らない名前である。仲間といえど、何もかもを打ち明け合ったわけではないからそれも当然だ。

 ジルケだって弟がいたことを話していない。魔物に殺されていなければ、クリストファーと同じ年頃だったはずの弟。……それと同じようなものだろう。

「はぁーあ……。何であんたはおっさんなのかねぇ、ほんと。気が滅入るったらないよ」

 ジルケはもう一度ため息をこぼし、肩を揺らして担ぎなおす。酒臭い男の体を引きずりながら、来た道をずるずると戻っていった。




→ 幕間 12

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