酔夢 2 師に教えを乞うた朝
昨夜のうちに降った雨は土を黒く濡らし、けぶるような朝を呼び込んでいた。白い霧の向こうに姿を隠した小鳥たちが囀るなか、私は寒さを堪えながら、ブラッドおじさんと向かい合っていた。
「拳闘家としての俺がもっとも重視するのは『頭と体の速さ』だ。まずそれを頭に叩き込め」
私は黙ってうなずく。髪や髭が白くなり始めているというのに、ブラッドおじさんの肉体は頑健で、静かで、誇り高い。そこから発せられる声も同様だ。私の憧れだった。
おじさんはゆっくりとした動きで私の顔に右拳を突き出した。私は戸惑いながら、首を傾けて躱した。
「今、お前は俺の拳を躱せたな。なぜだ?」
「……ゆっくりだったから」
「なぜ、ゆっくりなら躱せる?」
「え……っと」
「『躱さなければならない』という判断と、それに従った動作とが、俺の拳の速さに間に合ったから。言葉にすればそうなる」
「判断と、動作……」
「そうだ」
そう言った次の瞬間、おじさんは左の拳を突き出していた。私は短く叫んでのけぞった後で、それに気付いた。おじさんが寸止めしていなかったら、確実に顔面に当たっていた。
「今のを躱せなかったのは、俺が左拳で殴ると予測できなかった……つまり判断が遅れたからだ。身をのけぞる動きをもう一瞬でも速く実行できていれば躱せた。分かるな」
「わかる」私は心臓を高鳴らせながらうなずく。「つまり、敵の攻撃を躱すためには、すばやく判断できるようにしろってこと?」
「そうだが、それだけなら半分だ」
「半分?」
「言い終わってから三秒後に右拳を突き出すから、左に躱せ。一、二」
「!」
「三」
私は言われたとおりに動いていた。それでも、おじさんの拳は私の鼻先にあった。動き出したのは同時だったはず。だけど、私の躰が傾くのと、おじさんの腕が伸びるのとでは、後者の方が速い動きだった。
「時間の猶予はあったわけだから、お前の判断は遅くなかった。しかしそれでも躱せなかったのは、お前の動作が俺の動作に間に合わなかったからだ。たとえ判断が間に合ったとしても、こちらが遅れれば防御は成立しない」
「……」
「要するに、素早く的確な判断ができる頭脳と、素早く的確な動作ができる肉体。このふたつを持っている奴ほど強いということだ。防御だけでなく、攻撃でも同じだ。だから俺は重視する」
「なんていうか……、当たり前のことなんだね」
「そうだな。当たり前のことだ」おじさんは突き出していた腕を引いた。「大切だから、当たり前なんだ」
「もっと、技とか型とか教えてくれるのかなって思ってたけど」
「生意気いうな」おじさんは鼻で笑った。「技や型ってのは基礎があってこそ活きるもんだ。赤ん坊に剣を持たせても使いこなせまい」
赤ん坊あつかいされて、私はむっとした。反論はできなかった。
「それじゃあ、どうやって頭と体を鍛えるの?」
「勉強と鍛錬。それ以外にあるか?」
「鍛錬はいいんだけど……勉強か……」
「頭も筋肉と同じだ。働かせることでしか鍛えられん。リアに色々と教えてもらえ」
「母さんが教えてくれることは……、なんだかむず痒くて」
「むず痒い、か」おじさんは肩を竦めた。「レイチェル。あいつは『なりたいものになれ』と言ってるだろうが、本音では教会の仕事を継いでほしいと思ってるはずだ。あいつの両親から継いだ仕事をな」
「……」
「俺はその手のことを兄貴に押し付けて冒険者になったような、放蕩者だからな。本来なら説教できる立場でもないし、お前にも従う義務はない。本気で冒険者になりたいんなら、躊躇せず目指せばいい。ただ、あいつが何を思っているのかってことくらいは、想像してやれ」
「……何になりたいかなんて、まだしっかり考えてないけど」私は言った。「おじさんがそうしろっていうなら、もう少し真面目に勉強するよ」
「じゃ、そうしろ」
「うん。そうする」
おじさんは頷き、大きな手で私の頭を撫でた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?