【設定資料】エルガルディアの歴史概略
エルガルディアと呼ばれる世界における歴史のなかで、特に重要と思われる出来事の流れを選別し、以下に記す。非常に大雑把なものではあるが、諸氏のエルガルディアに対する理解の一助となれば幸いである。
なお選別している以上、ここに書かれていない重要な出来事も数多く存在することや、あくまで現在のエルガルディア社会における一般的認識(特に支配的立場にある神珠教団の観点)に基づくものであり、すべての記述が必ずしも真実とは限らないことには留意されたい。
【黎明の時代】 - 紀元前????年ごろ
そこに世界があると思った。ゆえにそこに世界があった。
彼女はその世界にエルガルディアの名を賜った。
神珠教の聖典によれば、この世界は《賜名神エルアズル》によって創造されたと伝えられている。エルアズルは原初の混沌のなかから「世界」を見い出し、それにエルガルディアと名前をつけることで秩序の線を引いた。
エルアズルは混沌にひそむ無限の力を世界に満たし、それを源として様々なものを創りあげた。光と闇、空と大地、草木と海……。それらを生みだした力の名を、霊素(レトラ)と呼んだ。
霊素という力のなかには、ひとつところに集まって塊となるものもあった。それらはエルアズルのみが持っていた「言葉」という力を宿していた。これにより、それは「ただ在るもの」の集合から外れることとなった。意志、あるいは魂の誕生である。
エルアズルはそれらすべてに等しく名前を賜った。それらは己の名にふさわしい存在となった。神々と精霊の誕生である。
【神々の黄昏】 - 紀元前1万年ごろ
神々の生きた時代がどのようなものであったのかについては、数多の伝承がもつれ合い、錯綜しているがゆえ、正確なところを捉えるのは困難である。しかしその終焉を語ったものについては、ほとんどの伝承において共通している部分がある。
あるとき、空を永劫の闇に染め上げた者があった。その者は《堕天の魔王》と名乗り、自らの眷属を率いて神々へ戦いを挑んだ。
世界の理を揺るがすほどの激しい戦いのすえ、相打ちに近い形で双方は斃れた。神々や魔王の眷属たちの多くは己の存在を保てなくなり、その霊素を世界に還した。こうして神々は去り、霊素となって世界をめぐるようになった。
細部に違いはあれど、この《堕天の魔王との戦い》によって神代の時代は終わったのだと各地の伝承は語っている。これが神々の黄昏である。
遠ざかっていく天上から、トランペッター達の鳴らす警報がけたたましく追いすがってくる。
ミカエルは絶望的に手を伸ばした。何も掴めはしない。彼の翼は失われ、ただ墜ちていくだけだ。あの光に満ちた故郷へ戻るすべはない。彼は、もう……
「もう後戻りはできないんだよ、熾天使くん。賽は投げられ、カリの目が出た。これが君たちの、そして僕たちの黄昏なんだよ」
奴の声がする。ミカエルは怒りの眼差しを周囲に振り分けた。共に落下する巨大な天界石の群れの中、そのひとつに、悪神は上下さかさまに立っていた。
「ロキ……! 貴様、兄上に何をした!」
「何も。楽しくお喋りしただけさ」ロキはにんまりと頬を歪ませる。陰になった右目が紫色に光った。「そんな眼で見ないでほしいなあ。これは僕の名前が定めたことなんだから。文句はエルアズルに言っておくれよ」
ミカエルは光子剣を起動し、近くの天界石を蹴って光の速さで斬りかかった。しかし斬撃は虚しく空を斬った。背後を振り返る。ロキは天界石に寝そべりながらけらけらと笑っていた。その姿は妖艶な女のものに変じていた。
「僕にばかり構ってていいのかい? ほらほら、あっち」
ロキは西の空を指さした。
かすむように白い光が射す空の下、不吉な暗雲が山頂にかかっている。そこから巨大なものが姿を現した。ミカエルは戦慄した。三つ首の魔竜アジ・ダハーカ。封印が解けたというのか。
次いで彼は南の海を見た。巨大な咆哮をあげながら、二匹の強大なる海蛇が、嵐の中で相争っていた。逆巻く波の主レヴィアタン、大いなるものヨルムンガンド。彼らの起こした波濤が島を呑み込み、大陸の海岸線を変えていく。
「おいおい、ヨルムンガンドのやつ何をやってるんだ? 敵でもない相手に噛みつくなんて、凶悪だなあ。それでこそ我が息子だ」
「これも……これも貴様の仕業か、ロキ!」
「だからそんな眼で見ないでってば。なんか悪いことがあったら全部僕のせいにすりゃいいと思ってない? 高天原じゃあサグメちゃんが何かやらかしたらしいし、砂漠じゃセトが悪巧みしてるって聞くよ。世界はまだまだ混沌の只中だってことさ」
ミカエルは再び剣を抜こうとした。しかし辺り一面を覆いはじめた陰りがその手を止めた。人の形をしただけの悪神の笑みが、耳元まで裂けた。
「ヒヒッ、ヒヒヒハハ……! 見ているかい、ヘイムダル。見ているならば角笛を吹くがいい。我が名はロキ。原初の世界を閉ざす者、神話の時代を終わらせる者だ……!」
荘厳なる白き光に満ちた天空を、拡大する黒い円環が蝕んでいく。《光をもたらす者》の翼に愛された場所が、同じ翼によって穢されていく。ミカエルはただ見上げることしかできない……!
その日、天は堕ちた。世界は闇に包まれた。
【人の時代】 - 紀元前数千年ごろ
神々が去りし後、それらの霊素を部分的に受け取り、その性質や姿形をまねる者たちがあらわれた。新生物の誕生である。
彼らは子をなすことによってその数を増やし、地と海と空を満たした。この中で魔王を由来とする霊素の濃いものは魔物と呼ばれ、他のものを害する存在として世界に受け入れられた。
特に霊素の力に長けていたのが人であった。人は「名前」という力を認識していたがゆえ、万物の霊長として地上を支配するまでに至った。世界創造から比すればきわめて短い時間を経て、人は文明をつくりあげた。
その早さを支えたのは、神々の記憶であった。神々のなかには、霊素の流れに還った後も寄り集まって強固な意志を保ち続けるものもあった。そのような霊素はやがて結晶となり、神の記憶、神の力、神の言葉を宿すことができた。これが神珠、および霊珠である。
神珠を通して神々に学んだ人類は、世界の様相をこれまでとは違うものへと作り変えていった。
《至宝の森》と呼ばれる地の大樹から、少女の形をしたものが零れ落ちた。浅い泉がそれを受け止めると、無数のモザイクが碧色に明滅をくり返し、波紋となって水面を走った。
少女は身を起こし、濡れた白髪と裸身を空気にさらす。木叢をすり抜ける朝陽を見上げる。
「私はリーヴスラシル。……どこにいるの、私のリーヴ?」
彼女はひとりごち、泉を歩いた。モザイクの波紋が広がるたびに水の組成は変質し、銅に、銀に、水晶に、様々なものに姿をかえた。
少女は泉からあがる。モザイクが彼女のからだを覆い、裾の短いクリノリンドレスのような若草色の服を纏わせる。彼女は近くの古木に手をふれて、通信を要請した。
『おはよう、スラシル』古木が応えた。
「おはよう。世界はどうなった?」
『予言どおりじゃよ。冬は過ぎ、神々は滅びた。ただ、君の目覚めはずいぶんと遅かったな。それは予想外じゃ』
【バラウル帝国の興亡】 - 0~400年ごろ
人がつくりあげた文明は、しかし、決して平和といえるものではなかった。人々は互いに「異なる」ということを理由にして、戦い、協力し、裏切り、滅亡し、勃興するを繰り返した。
群雄割拠の世を統一することとなったのは《竜傑》ヤシュラーンに率いられた軍団であった。彼らは圧倒的な武力によって各地を制圧し、一代でエルガルディアの半分を支配下におくという覇業を成し遂げた。
その力の源は《金眼の竜バラウル》の存在である。初代皇帝ヤシュラーンはこの竜と魂の誓約をむすび、その眷属である飛竜をも従えることに成功した。皇帝は偉大なる友に最大限の敬意をはらい、自らの帝国にバラウルの名を冠した。なお、この帝国の成立の年がバラウル紀の元年である。
帝国は四百年以上にわたって存続したが、時代が下るごとに皇帝の血からかつての勇猛さが失われ、頽廃の一途をたどった。帝国を成さしめた友への敬意もしだいに忘れられた。バラウルはこれに哀しみ、怒り、ついには自らの力で帝国を滅ぼした。すべてを焼き尽くした後、バラウルは誓約を破ったことによって骸と化した。
竜とともに興った帝国は、竜とともに滅びた。人の世はふたたび群雄割拠の時代を迎えることになった。
鮮緑の丘に顎をのせて昼寝を楽しんでいた黒鱗の竜が、小鳥たちに鼻先をくすぐられて、ゆっくりと目を開けた。家を呑み込みそうなほどの大欠伸をひとつ。小鳥たちは飛び立っていった。
『むうう……まだ寝足りん……む?』
ぼやけた視界に映ったものを怪訝に思い、竜は金色の眼を凝らして丘の麓を見た。
そこには人間の都があった。いくつもの尖塔を天に突きつける城を中心にして、数え切れないほどの建物が波紋のように広がっている。自分が四、五匹ほど寝そべっても余裕があるくらいの広さと見て取った。城ひとつとっても自分より大きい。
『はて、おかしいな……? 寝る前はあんなに大きくはなかった気がするが』
「人にとっての十二年とはこういうことだよ、バラウル」
丘の斜面を、煌びやかな衣服を纏った赤い総髪の男が近付いてくる。この世の何よりも大切な友の来訪に、バラウルはぱっちりと目を覚ました。
『おお、ヤシュラーン。君も昼寝に来たのか?』
「そうしたいが、違う。そろそろお前が起きる頃だと思って来たんだ」
『十二年か。そうだった、人の営みは雲のように過ぎるのだったな……』
ヤシュラーンは穏やかに微笑んだ。その頬には、バラウルが眠る前には一本もなかった皺が刻まれていた。髭も伸び、たくましい肉体も心なしか細くなっている気がする。バラウルには小さきことは分からない。だが変化があるのは確実だ。友は老いていた。
ヤシュラーンはいつものようにバラウルの鼻の隣に腰を下ろし、丘の麓を眺めた。彼が皇帝として治める都を。
「この十二年、お前にとっては短い昼寝に過ぎんだろうが、俺にとってはクソ忙しい時間だった。たまに遠征に出ることはあるが、大半はあの塔にこもって雑務に追われる日々だ。お前と共に駆け抜けた頃が懐かしい」
『雑務というと、アレか。机とやらで書き物をしたりするのか』
「そうだ。山のように送られてくる書類に目を通し、ひとつずつ判を押していくのだ。日が暮れるまでな」
『似合わんなあ』
「だろう? しかも窓を開ければお前のぐうすか寝てる姿が見えるんだ。恨めしかったぞ」
ヤシュラーンはそう言って豪快に笑った。バラウルも目を細めた。
『だがそのお陰で、こんなに立派な国が出来上がったわけか。君は凄いな』
「まあな。だが俺ひとりの力じゃない。俺についてきてくれた沢山の人達……そして何より、お前だ」皇帝は竜を見た。「ひとりぼっちだった俺の、最初の友になってくれた。お前がいてくれなければ俺はここまで来れなかった。だからお前の名前をつけたんだ。あの国は、お前の国でもあるんだからな」
『て、照れるぞ』
バラウルは爪でぽりぽりと鼻を掻いた。
【深淵の魔王】 - 400~599年ごろ
帝国亡きあとのエルガルディアを包んだのは困惑と、戦乱であった。我こそは次なる支配者とならんとするものや、再興をめざす帝国の残党、自衛のために武器をとらざるを得なかったものたちの間で、数えきれないほどの戦が散発的に発生した。特に《ダーテルハートの悲劇》に端を発し、エルガルディア全土を巻き込んだ長き戦乱の時代は、後の世に《罪悪の九十九年》と呼ばれた。
おびただしい量の血が流された。血河は地の底に染み込み、魔の霊素と混ざり合って、九十九年目に「それ」を呼び起こした。《深淵の魔王》の誕生である。
《深淵の魔王》は先代である《堕天の魔王》と同様、己が支配する魔界より眷属を召喚し、大軍勢を率いて世界を蹂躙した。しかしそれでも人類はひとつにはなれなかった。長きに渡る相克は、人類共通の敵があらわれた程度で消し去れるものではなくなっていた。
【天狼の勇者】 - 600年ごろ
魔王の災禍より人類を救うこととなる英雄にして、エルアズルより直接に名を賜りし《天狼の勇者》シリウスが歴史上にあらわれたのは、魔王の出現から翌年のことである。
その出自は定かではない。滅びた王族の生き残りだったとも、貧しい村に生まれた子供だったとも、この世界に由来をもたぬ存在だったとも言われている。他にも無数の説が存在するが、ともかくこの年若い勇者は戦乱のエルガルディアを旅してまわり、比類なき戦技と術技と天運、そして仲間たちの協力によって、各地に希望の光をもたらした。
苦難の冒険の末、シリウス一行は深淵の地にて魔王を討ち取ることに成功した。しかしこれ以降のシリウスの動向について、はっきりとした記録は何故か残っていない。あったとしても、証拠に乏しかったり、互いに矛盾していたりして、信憑性に乏しいものばかりである。公的には、勇者と魔王はともに歴史の表舞台から姿を消したことになっている。
どこまでも赤黒いアビスの界面に、一陣の風が吹く。足元に広がる嘆きの血の海がさざ波に揺らいだ。それは死者たちの怨嗟の呻きだった。
シリウスは一歩ずつ、血の海を進む。歩くたび、花が咲くようにその場所が凍てついていく。
目指す先、折り重なる骸の玉座の上に立つのは深淵の魔王。《アバドンの衣》を脱ぎ捨て、人へと戻ったその姿は、血の水面に映る自分によく似ていた。シリウスの眼から涙が零れた。
「莫迦め。何故泣く」魔王が吐き捨てた。「嘆きか? 悲しみか? 此処は地の底よりも深き底の底、戦禍の贄となった哀れな魂の落ち果てる場所だからな。貴様のような天上の星にも、彼らの叫喚が届いたか」
「……それはお前だろう、深淵の魔王」シリウスは立ち止まり、応える。「お前にはずっとこの声が聞こえていたんだな。だからお前は、泣いているんだな」
「泣いているだと? この俺が?」
魔王はせせら笑った。彼は気付いていないのだ。己の眦から流れ落ちる赤い涙のことを。生まれ落ちた時から常にそうであったが故に。
「俺が涙など流すものか。それは無力で愚かな人間どもに許された最後の寄る辺だ。我らアビスの民には必要ない」
応えるように、血の海に次々と波紋が起きる。
その身を血に染めた魔物たちの軍勢が、深淵の底から起き上がってきていた。万か、億か、那由他の果てか。人類の犯した罪が、応報するために帰ってくる。
魔王が剣を抜いた。凶星の紅が閃いた。
「来るがいい、天狼の勇者。所詮俺たちは同じ空から落ちた星。どれだけ言葉を交わしても、互いに喰らい合う定めは変わらん」
「……」
勇者も剣を抜く。
赤黒い魔物の軍勢が攻めかかってくる。天狼の剣が蒼き凍て星の光を放った。すべてが停止した。凍てついた時間の中を、シリウスは駆け出した。
【神珠教団の設立】 - 600~1400年ごろ
苦難の果てに平和を得ることができた人類は、これを一時のものにさせないための努力を始めることとなった。そのために創設されたものが、《神珠教団》である。
神珠教団は、エルアズルを最高神、天狼の勇者をその聖性の化身として位置づけ、崇拝対象とする。教団の第一目的は、エルガルディアの持続的平和の実現である。特に《罪悪の九十九年》という悲惨な戦争状態に至った大きな要因のひとつ、「各信仰間の不和」を調整する役目を、教団は積極的に担った。
具体的には、エルガルディアに存在するすべての神々、精霊を「等しくエルアズルに名を賜りし存在」とし、そこに優劣はないものとして教義に取り込んだ(少なくとも建前上は)。この際、各信仰を組織化しつつも、その内容に変化を迫ることは極力避けた。その上で、教団に参加すれば、ある程度の義務や平和を乱すたぐいの行いに罰則を課す代わりに、その存続に可能なかぎりの援助をすることを約束した。その在り方は宗教の互助組合(リリジョン・ギルド)と喩えられている。
平和を歓呼する声が冷めやらぬうちに体裁を整えられたこともあり、教団の狙いはおおよそうまくいった。完全な平和とはいえないが、それでも《罪悪の九十九年》以前のような大きな戦の起こらない時代は、数百年間も続いた。
【惑霧の魔王】 - 1400年ごろ
《深淵の魔王》のそれと比べれば、その登場はいささか唐突であった。東方に位置する湖上の王国デラヴァラが、何者かによって一夜の内に滅ぼされた。その者は城を乗っ取り、強大な霊力により魔の霧を生みだし、全土へと広げた。《惑霧の魔王》の誕生である。
《惑霧の魔王》の侵略は狡猾であった。魔の霧は秩序に属するものの心を乱し、魔に属するものの力を増すものであった。都市間の移動は騎士や冒険者でさえ大きな危険を伴うものとなり、人や物の行き来はほぼ封じられた。先の見えぬ消耗戦を強いられ、人々は心身ともに衰弱し、なかば自滅に近い形でいくつもの国や町が滅びた。
少年は階段を駆け下りる。従者としての彼の一日は、敬愛するカプアーナの身支度を手伝うことから始まる。その務めを果たせなかった。部屋に彼女がいなかったのだ。嫌な予感がした。
最後の四段を飛び降りて、右に曲がる。ぼんやりと歩いていた衛兵とぶつかり、少年は尻をついた。衛兵は怒りを隠さなかった。
「痛えじゃねえか、クソガキ。どこに目ぇつけてやがんだ」
「カ……、カプアーナ様を」少年は咳き込みながら問うた。「司教様を知りませんか。お部屋にいらっしゃらないのです」
「おい、謝罪もなしか? 美人司教の従者ってのは随分いいご身分なんだなァ。ナメくさりやがって」
衛兵は少年の顔に唾を吐きかけ、そのまま通り過ぎていった。彼は拳でそれを拭った。歯を食いしばり、立ち上がる。
教会堂を出て、町の中を走る。鼠色の朝。分厚い雲に遮られ、もう何日も太陽を拝んでいない。たとえ雲がなかったとしても、あの高い城壁がある限り、朝陽が射すことはない。そして城壁がなかったとしても霧がある。大陸全土を覆う魔の霧が。
すれ違う人々はみな俯き、あるいは座り込んで膝に顔を埋め、誰ひとり空を見上げてはいなかった。あの衛兵だけじゃない。この町の人間は全員が荒んでいる。魔の霧に包囲され、食事もろくに摂れぬ日々。致し方あるまい。こんな時間がいつまで続く。
カプアーナ様はどこだ。少年は空腹を忘れ駆けまわる。両親を亡くした自分を取り立てて下さった優しいお方。ここのところ夜な夜な聞こえてくる彼女の声を思い出す。心臓が暴れているのは何故だ。
重苦しい音が町中に響いた。この状況下で聞こえてはいけない音だ。彼は全力で走った。
魔物への警戒のために取り潰された城門のうち、ひとつだけ残された東の門。その両開きの扉が、ゆっくりと、開こうとしている。
「な……ん、で」
少年は絶望に声を震わせた。
開かれた門の隙間から、くすんだ水色の霧が忍び込んでくる。首から血を流して倒れる二人の門衛が、霧の波に飲み込まれた。その魔手は、跪く金髪の聖女をも捕らえようとしている。
「ああ、魔王様……! わたくしは仰る通りに致しました。どうか、どうか、もっと愛してくださいませ。どうか……」
女は……カプアーナは恍惚の表情で哀願する。その傍で霧が人のような形をとった。少年は霧が笑ったような気がした。嘲りの笑みだ。
霧の波が女を飲み込んだ。
《惑霧の魔王》は時に自ら陣頭を指揮し、侵略を愉しんだ。勇者シリウスとゆかりのあるプラウドスター王国も、魔王による侵略を直接に受けたうちの一国である。勇猛なる国王の尽力もあり、国家の滅亡は避けられたが、国王は戦いのなかで魔王の凶刃にたおれた。
国王にはセリアという名の娘があった。苛烈な性格で知られた彼女は魔王への復讐を誓った。彼女は危険を押して各地をまわり、数々の協力を取りつけ、各国の軍や冒険者からなる混成軍をひきい、魔王の居城を攻めるに至った。《雷光姫》の称号で呼ばれるほどの術師でもあったセリアは、信頼できる仲間とともに魔王と直接対決し、これを打ち破った。
【現在】 - 1420年ごろ
そして現在、エルガルディアは緩やかな平和と不穏のなかにある。
魔王の脅威はふたたび去ったが、魔物の脅威は途絶える気配がない。復興は進んでいるが、賊や邪教徒や欲深い権力者たちは社会の影で暗躍し続けている。民はその日その日を生きるのに精一杯、為政者は多様な問題に頭を悩ませ、冒険者は享楽や使命を胸に世をわたる。そしてそのどれにも属さぬ者たちも数多あり、そのすべてが入り混じって、坩堝をなしている。
それは《惑霧の魔王》以前の数百年と同じようなものであり……つまりそれこそが人類社会の平常と呼ぶべきものなのか。それはいずれまた失われゆく仮初のものに過ぎないのか。今のところ、その答えを知る者はいない。
農夫の胸の裂傷はひざまずく修道女の祈りによって光につつまれ、致命のものではなくなりつつあった。たおやかに組まれた祈りの手は魔物の血にまみれている。
「もう大丈夫です。あとは自然に治りますよ」
修道女レイチェルは耳にかかった金糸雀色の髪をかきあげて、微笑んだ。
通りがかりの修道女の奇跡の御業に、村人たちはざわついた。農夫をふくめ、感謝の意を述べる者はいない。悪意でなく、戸惑いゆえだ。
レイチェルは立ち上がった。長老が手を伸ばした。
「あ、あんた、どうなさる」
「魔物の巣をつぶします。森の奥ですよね」
「よしなされ! 襲ってきたのは赤肌の魔物ばかり……、きっと《アビスの血の池》が湧いたのじゃ。無限に相手することになりますぞ」
「今つぶさなければ、皆さんが危険です。攫われた人もいるのでしょう。私は行きます」
「じゃが……」
「お酒を用意して、待っててくださいね」
彼女はさっと髪をなびかせて、去った。村人たちはどよめきながら見送るしかなかった。
↓ 連載中(2021/02/25現在)
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