『「同時代」としての女性短歌』
池田澄子『休むに似たり』を読んでいたら、正木ゆう子の文章が引用されており、全文を読みたいと思い、『「同時代」としての女性短歌』を探した。
1992年、約30年前に河出書房新社より出版された本書には85名の女性歌人の歌が各10首と短文、歌人、俳人、柳人、詩人からのエッセイ、歌人同士の対談などが収録されている。
国立国会図書館の書誌には、シリーズ名に「Bungei special 1」とあり、もしかしたら雑誌『文藝』に掲載されたものをまとめたのかも?などと推測するが、どこにもそんな記述はない。ちなみに2以降はというと、国立国会図書館サーチで「Bungei special」と「河出書房新社」で検索したが、出てくるのは本書のみだった。
正木ゆう子の文章は、長年言われてきた、「俳句は女性に適さない」という言説に対するアンチテーゼであり、有季定型、季語の持つパワーについて簡潔に書かれている。
短歌と俳句と川柳の違いについては、柳人の時実新子の文中に、川柳の特徴は穿ち・軽み・笑いを根源とした歯切れのよさや軽い足さばきにあると前提したうえで、こんな記述がある。
わたしは短歌はほとんど作らない(作ってもどこにも出していない、本当にごく私的なもの)ので、短歌の抒情が本当にめそめそしたもの(だけなの)かどうか、は判断がつかないが(読者としては「めそめそ」したものだけではないと思うけど)、せっかくなので、気になった短歌についても書いておく。
吹かれつつやがてくびれし雲の首 小学生は忙しすぎる
栗木京子
書くことは消すことなれば体力のありさうな大きな消しゴム選ぶ
河野裕子
おきどころなき熟れ桃を啜りつつ五十になるにまだ二年ある
久々湊盈子
生きがたくなお死にがたき現世の闇にともれる紫陽花の白
久々湊盈子
愛人も妻もまつぴらごめんなさいアンモナイトに吾はなりたき
田中あつ子
本棚の最上段から抱きおろすまだ詩にならぬ動詞いくつか
大田美和
一片の不安もなくて文学をたしなむ人の手はきれいだな
大田美和
まぐろの血・牛の血・豚の血 自らの指の血流して炊事が終わる
大橋恵美子
「国連」も「国家」も<手段>であるはずだ。<目的>ではない。生命抛げるな
大橋恵美子
懸命に生きたることがあったかとわが情報に促されている
勝部祐子
使い捨て情報ばかり蓄えて傷みに震えているかパソコン
勝部祐子
海はるか君の鎖骨に耳寄せて三千の魚の産卵想う
勝部祐子
借りてきた卒論用の文献を眠るわたしに積み上げてゆく
壇裕子
急行に無視されているこの駅も十代の日の舞台でありぬ
壇裕子
どこもどこも似たようなこときいてくる面接試験に咳をこらえぬ
梅内美華子
この夏のすべての記憶をたくはへて銀杏はゆつくりねむりはじめる
山崎郁子
タブララサ ヒトの経緯を子に聞かすおそろしき日を待ちつつ眩む
辰巳泰子
これらの歌は30年という時間の経過をほとんど感じることがなかった。
この本を読んだ後、『うたわない女はいない』(働く三十六歌仙著 2023年)を手に取った。アンソロゾロジー的な作りがよく似ているので、比較しながら読めるかな、と楽しみにしている。