配本制度について

現在の出版業界の苦境は配本制度が生み出したものだと思っている。端的に結論というか理由を書いてしまえば、本屋に本を選ぶ力がなくなってしまったから、ということだ。

配本制度のすべてが悪いということではない。初回配本やサポート(リリーフ)配本に意味はある。ただそれは、あくまで書店員の補助としての役割であって、配本が主になってはならないのだ。

おそらくかつては本屋がすべての本を選んでいたのだろう。それがいつの時代かはわからないが、自分ですべての本を選び仕入れることが難しくなってしまった。本の点数が増えたこと、本を読むひとが増えたこと(かつて本は嗜好品かつ高級品だった)、そのふたつが相互に作用してとにかく「数(量)」が増え、本屋の脳ひとつでは処理しきれないようになったのだ。もちろん本屋の規模も大きくなる。店舗数だって増える。そこで登場したのが配本という考えなのだろう。このあたりの歴史的なものは確実に何かの本にまとまっているだろうから、正確な歴史を知りたいひとは探してみてほしい。

とにかく、そうやって配本制度は登場したのだ。本屋がどう頑張っても手が回らない、知識が追いつかない領域が生まれてしまったからだ。つまり配本制度は、本屋の知識(能力)と「体力」の不足(というか「無謀」)を補うために考案されたはずだ。そう、「補う」だ。主ではなく従。


しかし現在はどうだろうか。多くの本屋、特にチェーン店の大型店舗はこの主従が逆転してしまっている。あまりにも多すぎる刊行点数に、それに比例する入荷数、そして速まる刊行ペースに合わせた返品作業。本に振り回される日々だ。もうそこに「意志」はない。新しい意味での書店員の限界が生まれてしまっている。前述の「知識・能力」と「体力」の限界とは意味が違う。前者は書店員が能動的に行動する際に生まれる、ある意味では積極的な限界である。後者、つまり現在の限界は「本に振り回された」結果生まれた限界、「本を選んで仕入れる(そしてそれを意志を持って並べる)余裕なんてあるかボケ!」という限界だ。

もちろん本屋側にも非はある。配本制度が生まれたのは「置きさえすればバカスカ本が売れる」と言われていた時代の最中またはその前後のはずで、おそらくそれゆえに「考えている余裕がない(ここではまだ前述の「積極的」な限界)」が「考える必要がない」に転じてしまったのだろう。「とにかく置けば本が売れる」と「何もしなくても本が入ってくる」の合わせ技一本だ。こうやって「楽」を覚えた本屋は、「置きさえすれば」の時代が終わってしまって慌てふためいているのだ。あるいは、魂を売って悪魔と契約を交わす。


そしてこの「本屋の本を選ぶ能力の喪失」に、版元の自転車操業型粗製乱造が加わった。かつては「置けば売れる」という環境ゆえに低質な本でも「必要とされた」。そして「置けば売れる」時代が終わっても、配本制度がある以上、「刊行してしまえば」取次が「撒いてくれる」のだ。いまやほぼすべての版元が自転車操業だと言ってもいい。「大手」と呼ばれるようなところも刊行点数を増やしている。もちろん低質なもの、そしてヘイト本やトンデモ本も刊行されている。あなたがそれに手を出すの?という驚きは、もはやない。

じゃあ「置けば売れる時代」が終わったのは何故なのか、というと、ネットやら可処分所得(時間)の影響だけではない、と少なくとも本屋は思わなくてはならないのではないか。ようは他人のせいにするな、ってこと。

本が売れなくなったのは、つまり本屋がおもしろくなくなったのは、シンプルに、「本屋が本を選ぶ能力がなくなったから」だ。いや、能力はなくてもいい。必要なのは意志だ。「これがおもしろい」「これが私の売りたい本だ」という意志。その意志がある本屋は、棚は、おもしろい。なにか、を感じる。ひとそれぞれ好みや趣向は違うから、合う合わないはある。でもそこには「なにか」がある、ということはわかる。

そのような意志のある本屋にとって、あくまでも「主」でありつづけようとするような配本制度は邪魔でしかない。これは売れない(This book has no quality for sale. / I don't want to deal with this.)という本が勝手に入ってきて棚を圧迫する。しかし入荷した以上なにかしらの処理をしなくてはならない(棚に挿す、平積みにする、保留にする、など)。あるいは返品に回す、でも返品率の制約(返品しすぎると来季以降の配本に響き「売りたい」本が入ってこなくなる、など)もある。

対して、意志のない本屋は版元の格好の餌食となる。送りつけに次ぐ送りつけ。大量に流れ込む本(のかたちをしたもの)を、右から左に受け流す日々。取次に集約された「全国」ランキング(NOT当店)を判断基準にしたハンディで抜き取り銘柄を見つけ返品に。あるいは「機械的に」新刊棚から既刊棚へ、既刊棚から返品ラックへ。1冊だから挿しにして、5冊あるから平(面)にする。本は「期間」と「量」で判断される。大量に入荷した(配本された)新刊は一等地で平積みに。それが誰のどんな本なのかは関係ない。ワタシハホンヲナラベルキカイデアリ、ホンヲエラブヒトデハナイ。

どちらも返品率は高くなる。前者は「いらない本」を返すために、後者は「売れなかった本」と「置けなくなった本」を返すために(そして「売れなかった本」は書店員の置き方が悪かったために生まれたものでもある)。もちろん本は売れなくなる。後者は言うまでもなく、前者は「意志を持った棚作り」の代わりに「余計な本に対応する」時間を取られるために。そして本の送り迎えを担っている取次が疲弊し、送料(と身体的な)負担の大きい地方書店が冷遇される。同時に運賃負担のお願いが版元に行く。結果、版元は経費節約を迫られ(たとえば)スリップレスに移行、中小規模の本屋が煽りを受ける(えてして意志を持ったor持てている本屋が多い)。あるいは運賃負担の見返りに(版元の)配本が優遇され、書店への送りつけが増加する(とんでもない数のマクラなど)。


結局のところ、この悪循環をとめるのは「楽をしない」ということ。「脳を使う」ということだ。自分の頭で考えることをやめない。意志を手放すな。あくまでも主は己(本屋)であり、配本は従でしかない。己の限界を補うために、己の能力に「上乗せ」しより高みに到達するために、配本制度を「使う」のだ。己の「実力」を「維持する」ために配本を使っていては、実力は低下する一方だ。そしていつの間にか主従が逆転する。見計らい配本がないとなにもできなくなる。

主を、意志を取り戻せ。

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