双方が双方の父と子(「猫を棄てる」の摩訶不思議)

 単刀直入に行きます。「猫を棄てる」を読んだら、すぐに「海辺のカフカ」に取り掛かって下さい。鉄は熱いうちに叩け、です。

 新鮮なお刺身をお醤油に浸して食べたら、次は何が欲しいですか? もしくはおいしい明太子が手に入った時でもいい。やっぱりアツアツの白いご飯ですよね。そういうこと。もちろんパンや白ワインでも合うものはあると思うので異論は認めます。ただ読書も食事と一緒で、間違いのないコースとか盤石のペアリングというものが存在するのです(たとえば村上春樹の長編小説と沢木耕太郎のエッセイやノンフィクションはかなり併読がしやすい。ケーキと紅茶みたいにどちらもすいすい進みます。ぜひお試しあれ)。「猫を棄てる」は明らかに「海辺のカフカ」の前奏曲という一面を持っています。前菜とは言いません。前菜がメインディッシュの後に出るのはまずあり得ない。ではデザートか、というとこれも違う。緊迫感というか胃袋への溜まり方がデザートの軽さとは別次元だからです。

 「ねじまき鳥」みたいにパイロット版的に書かれた短編が壮大な長編へと生まれ変わるパターンはこれまでにも何度かありました。他の作家さんの本でも時折見られることです。でも今回は長編が書かれてから長い年月が経過した後で、その原型に近いものが著者の意識の奥から発掘されたわけで、これはかなり特殊なケースだと思います。なぜなら「猫を棄てる」は「海辺のカフカ」が書かれる前から存在したという意味での同作品の原型ではなく、「海辺の~」を書いたことで著者の中で生まれた何かが無意識下でじっくりと発酵され、2020年になってようやく「海辺の~」の原風景という明確な形を纏って世に現れたものだからです。いわば「海辺の〜」から生まれた子どもでありながら、同時に「海辺の~」を生んだ父親でもあるわけです。

 なぜこんなことができたのか? それは「猫を棄てる」が小説ではないからだと思います。長編小説を発表してから二十年近く経った後で、それの短編版が生まれるというのはどこかしっくり来ません(未発表の原稿が発掘された的な形で死後に出ることは度々ありますが)。しかし「猫を棄てる」は小説ではなく「海辺の~」の物語とは何の繋がりも持っていません。にもかかわらず確実に「海辺の~」を生んだ原風景であり、且つ「海辺の〜」から生まれたひとつの結論でもある。この辺りの多重性に「文学とはいかにして生み出されるか?」という命題へのヒントが暗示されているようで、実に興味深いのです。

 ここでもうひとつポイントがあります。
 以前の私もそうでしたが、アンチ村上春樹の人がよく言う「苦手な理由」のひとつに「伏線を回収しない」というものがあります。謎を謎のまま放置されるのが許せないと。実際そういう作品はいくつかあります。今の私はむしろ無理に辻褄を合わせてそうした回収作業をおこなわない点にこそ、心の奥底から掘り出した物語に対する著者の誠実さを感じ取るのですが、多分これは他の春樹ファンの方も概ね同意見でしょう。しかし「何だそれ。意味が分からない」という人が少なくないことも理解できるのです。そういう人たちにぜひ「猫を棄てる」を手に取って欲しい。その上で「海辺の~」を読んで欲しいのです。先ほども書いた通り、この本は「海辺の~」とは直接的には何の関係もありません。伏線でも何でもありません。しかし(同じ言い回しをまた使ってしまいますが)にもかかわらず、この短い随筆的な物語の中で触れられた著者の心に潜む複雑な想い、これが「海辺の~」という長編小説を生んだことは明らかなのです。つまり先に書かれたはずの「海辺の~」が後に書かれた「猫を棄てる」を結果的に回収している。この摩訶不思議なマッチングをぜひ体感して欲しいのです。

 最後にひとつ提案があります。ご自分のへそを、ではありません。大人の事情さえクリアできたら、文藝春秋さんからぜひ「海辺のカフカ」の新装丁バージョンを出して欲しいのです。もちろんハードカバーで。その際はぜひガオ・イェンさんの挿絵もお願い致します。感謝。

 

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