見出し画像

ハードボイルド書店員日記㊲

3年ほど前の話。

以前の職場へ足を運んだ。日曜日だった。

年季の入ったオフィスビルの地下1Fに位置する店で、客層の9割はビジネスマン。通常、書店は土日祝日が稼ぎ時だが、そういった事情でここは数少ない例外である。同じ建物にインテリアショップが入っているため、建築関係の専門書や雑誌のバックナンバーが充実している。ファミリー向けの店ではまず置かない、取次を通さぬ直仕入れのビジネス誌も目に付く。

入ってすぐのフェア台を見て足が止まる。発表されたばかりの直木賞受賞作が積まれていた。芥川賞受賞作はまだ本になっていない。元同僚が雑誌の棚整理をしていた。声を掛けると「お、久し振り。珍しいね」と柴犬みたいな瞳を円くした。笑うと目尻がクシャクシャになるのも相変わらずだ。

彼は私よりもずっとキャリアが長い。商品知識で「この人には敵わない」と脱帽した数少ないひとりだった。実家が商売をしているせいか、お客さんとの接し方も見ていて勉強になった。一度「まだおつりをもらっていない」と言い張る年配の男性に「間違いなくお渡ししています!」と顔を真っ赤にして反論したときは「そんなに断言しちゃって大丈夫ですか?」と内心肝を冷やしたが(通常大きな書店ではこの種のトラブルを防ぐために、レジの様子を監視カメラで撮影している。この店では設置していなかった)。

「三島由紀夫、いまでもお好きですか?」「最近はあまり。君は太宰読んでる?」「いや」「そういうもんだよ。また波が来るから」「これ、積んでるんですね」「直木賞?」「ぼくの職場ではすぐに売り切れちゃって重版待ちです」店の規模と客数の差だと思った。大型書店では発売日に即売り切れる本や雑誌が、小規模な駅中の店や町の本屋でずっと売れ残っている現象は珍しくない。

「ヤマ張ったんだよ」彼は何でもないことのように言い、平積みのファッション誌の上に放置されたレシートを拾い上げる。「え、これが受賞すると?」「うん。だからたくさん注文しておいた」「○○じゃなくて?」獲ると予想していた別の候補作の名を挙げた。「あれはないよ~。作風が特殊過ぎる」でも一般的な知名度ではその作家が頭ひとつ抜けていたし、書評サイトのレビューでも絶賛されていた。間違いなく今回の本命だったのだ。

「どっちも読んだんですか?」「いや。でもわかるよ」時間が止まった。私は二作を熟読したのだ。その上で「獲るのはこっちだ」と確信し、そして見事に外した。彼は一冊も読まずに私の上を行ったことになる。

「売る本をいちいち全部読むわけにはいかないからね。ざーっと見て『こういう感じかな』と当たりを付けるんだ」「それでわかるものですか?」「まあね。あとは前回の受賞作の内容と版元を考える。同じ出版社ばかりが獲ったら角が立つでしょ」「前回は時代小説でしたよね」「そう。だから次は違うジャンルかなって」ジャンルに関しては私も同意見だった。だが出版社のことまでは考えが回らなかった。

「先輩、さすがですね」自分はまだまだなんだという事実を腹の底から噛み締めた。だが気分はアリの触覚ほども悪くなかった。「え、何が?」欠伸を噛み殺し、昼どうしようかなとつぶやいている。「ぼくももっと書店員として精進します」「ふうん。まあ無理しないでね。仕事だけが人生じゃないから」そのとき、積まれていたアウトドア誌が一冊フロアに落ちた。挟み込まれた付録の箱が著しく歪なせいだ。キャンプ特集である。表紙で焚火が赤々と燃えていた。

拾おうと屈んだ彼の動きが止まる。私の顔を見て叫んだ。「その火を飛び越して来い!」目尻に例のクシャクシャが生じていた。隣で週刊誌を立ち読みしていた女性がびくっと震え、足早にレジへ向かった。「そういう冗談、いまも言ってるんですね」「君がいないから誰もツッコんでくれないよ」「三島の中でも『潮騒』は読み易い方ですけど」「まあ仕方ない。ただ一切は過ぎて行くよ」「ここで『人間失格』?」「サービスだよ。また遊びに来てね」「もちろんです」

決して大きな店じゃない。立地も良くない。でも必ず行く。ここには最高の書店員がいるから。いまの己の立ち位置を確かめて謙虚になれるから。


この記事が参加している募集

習慣にしていること

作家として面白い本や文章を書くことでお返し致します。大切に使わせていただきます。感謝!!!