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父と私の10年、あるいは44年

「ずいぶん遅くなったな」

父方祖父の葬儀で10年ぶりに会った父の言葉に、私の思考は、そしておそらく表情も、ピリッと固まってしまった。

この場で、そんなこと言うか……。相変わらずだな。

祖父が亡くなったと報せが届いたのは、2020年2月29日、土曜日の朝だった。その日の夜に仮通夜、日曜日に本通夜、月曜日が葬儀。すべてに参加するには時間も気持ちも余裕がなく、せめて葬儀だけはと仕事を休み、家族を連れて故郷へ向かった。

13時からの葬儀で、到着したのが13時だった。親族席に座り、僧侶の読経を聞き、焼香を済ませ、席に戻るときに父と目が合い、そのときに言われたのだ。

「ずいぶん遅くなったな」

私は亡くなった祖父にとっての初孫で、たいそうに可愛がってもらった。だから、葬儀にしか参列しないのはあまりに不義理だと思っていた。その葬儀にしても13時ギリギリに到着というのは、父にしてみれば、故人の息子としても、私の父親としても、腹立たしいことだったろう。

なにも言葉を返せない私に、父は続けた。

「病気してるわけじゃないよな?」

「……うん……」

そう返事しながら、父の表情や会話に違和感をおぼえた。そして、椅子に座ったあと、ハッと気がついた。父は「ずいぶん遅くなったな」と言ったのではなかった。

「ずいぶん細くなったな」

と言ったのだ。

「ずいぶん細くなったな、病気してるわけじゃないよな?」

再び読経を始めた僧侶の声を聞きながら、父の言葉が脳内で繰り返された。

「ずいぶん細くなったな、病気してるわけじゃないよな?」

……。

「病気してるわけじゃないよな」だって!?

私が知っている父は、子どもの体を気遣うような人ではなかった。それどころか……。

「細くなったな」だって!?

そんな変化に気づく人でもなかったのだ。

10年前に比べて少し太った父をちらちらと見ながら、私は10年という歳月がもたらした父の変化に戸惑っていた。

喪主の挨拶は祖母にかわって父が立った。

いつも自信満々で、我こそは叩き上げのビジネスマンだと自賛し、過去の同級生たちを見下し、地域の人たちを蔑み、口を開けば自慢話。

そんな父が、マイクの前で殊勝に挨拶している。

父は泣くのか、それとも泣かないのか。

興味津々に見つめていて気付いた。

父の唇は、そして手も、震えていた。

あの怖いもの知らずな父が……、震えていた。

その姿を見たときの気持ちを、どう表現すればいいのだろう。

落胆。

私の人生にとってのモンスターであった父。

恐怖の対象、憎悪の的。

そのモンスターを反面教師として、良き父、良き夫であろうとしてきた。

ところが、そのモンスターは、もしかするとハリボテだったのかもしれない。

憐憫。

あぁ、かわいそうに。

無敵の父も、さすにがこの場は緊張するのか。

その緊張を、こうして息子に冷静に見つめられるなんて。かわいそうに。

後悔。

さっきの聞き間違い。「ずいぶん細くなったな、病気してるわけじゃないよな?」

あのとき、聞き違えていなければ、もう少しましな表情ができたかもしれないのに。

虚無。

こちらから音沙汰を断って、10年。

10年。

結婚式に呼ばず、長女が生まれたことも、次女が生まれたことも、三女が生まれたことも知らせずに過ぎた、10年。

祖父母に会いに行くたびに「お父さんを呼ぼうか、お父さんも会いたがっているよ」と言われたが、「そんなはずはないよ」と止めてもらった、10年。

この10年に対する虚無感。


葬儀が終わり、火葬を済ませ、その後の食事会に参加した。

すぐに帰るつもりだったが、父が繰り返し誘ってきたのだ。私の知っている父ならもっと強圧的に、それが当然であるかのように参加を促しただろうが、そういう様子ではなく、「どうせ夜ご飯はどこかで食べるんだから、せっかくなんだし食べて帰れよ」と言うのだ。

やはり、父は変わった。

食事会での父は、席を立ってはビールを注文し、参加者に焼酎を作っては配りと、甲斐甲斐しく動き回っていた。私の知る父は、こういう場では息子を働かせ、自らは動かない。

ここにいるのは、本当にあの父なのか?

あちこち動く父が気になって、食事が喉を通らない。

お開きのあと、席に座って親戚と酒を飲んでいる父のところに行き、

「お父さん、帰るよ」

そう声をかけながら、自然と父の背中を触っていた。

帰りの道中、父がずいぶん変わったと妻に語ったら、

「奥さんが優しそうな人だったからね。奥さんで変わったんだろうね」

と言われた。

ずいぶんなことを言うものだと思った。その言いかただと、父のDVや浮気といった悪行は、父の元妻、つまり私の母のせいである、と言っているようなものだから。

いくら姑が嫌いとはいえ、そんな落としかたはなかろう。

腹こそ立たないものの、悶々としてしまった。

ところが、しばらく考えていると、妻の言うことにも一理あると気づいた。

父は、母と離婚してから1年か2年して再婚した。バツイチで子どもが一人いるエツミさんというその女性は、雰囲気が地味で、決して容姿端麗でもなかった。面食いで遊び人の父がどうしてこういう人を選んだのだろう、もしかして「家事をしてくれる人」くらいの感覚なのだろうか、と訝しんだものだった。

そんなエツミさんと父が結婚して、もう22年か23年になる。一方、私の母と父の結婚生活は20年か21年、しかもそのうち10年は家庭内で口もきかない家庭内離婚状態である。

「妻」としては、エツミさんのほうが圧倒的に影響力をもち、この20年以上をかけて父を作り変えてきたのかもしれない。

もちろん、父の年齢的なものもあるだろう。

父が変わったのはエツミさんだけの功績ではないし、父が変われなかったのは母だけの落ち度ではない。

変わった父を見て、

「こんなに変われるなら、10年前、20年前、あるいは俺が子どものころに変わってくれても良かったじゃないか!」

泣きたいような、叫びたいような、そんな気持ちにもなりかけた。

しかし、父が変わるには、母との離婚、エツミさんとの再婚、私たち子どもとの疎遠といった環境変化と、長い年月が必要だったのだ。

いろいろな要素が絡まりあって、24歳から44歳までの父は変われなかったし、それから68歳までの間には変わることができたのだ。

環境だけでは人は変われないし、歳月だけでも変われない。環境と歳月が噛み合ったとき、きっと人は変われるのだろう。

そうやって変わった父を受け入れるためには、私にだってこの10年が必要だったのではなかろうか。

結婚し、三人娘の父となり、酒をやめ、精神科医として多くの人の人生に触れてきた、この10年が。

父を、弱かった一人の人として、受け入れてみよう。

そんなふうに思った。

いまの気持ちになるのに10年かかったことへの後悔はない。

かといって、満足もない。

後悔や満足といった感情とは違うのだ。

大切なものを紛失し、10年たって忘れたころに、タンスの後ろから出てきた感じ。

もう大切ではない。

必要もない。

でも、見つかったことで、胸のつかえが少しとれる。

そんな心境。

もちろん、父が「大切な人」だったことはないけれど、「あっ、そこにあったんだ」という微かな懐かしさと安堵感がとても似ている。

父を赦す赦さないという話ではなく、自分のなかで何か一つ重石がとれたような心もち。

父の子として生まれて44年。

今回の祖父の葬儀では泣かなかった私だが、いつか父が死んだとき、はたして私は涙を流すのだろうか。

もしかすると、流すのかもしれない。

そんな気がしている。

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