科学の冷たい眼 ウマ娘プリティーダービー 新時代の扉についてのメモ


私達は、生まれながらの肉眼だけでは、どれだけの事を知ることができたでしょう

東京シネマ『科学の眼』1966年

 街のど真ん中に巨大な競技場があり、そこにウマ娘が集う。ウマ娘とはなにやら有蹄類のような耳を頭上に持つ少女たちのことだ。
 ゲート内に導かれた彼女たちは、客席に座る大勢の人々が口々に上げる歓声の中、何かにとりつかれたかのように走り出していく。
 小判型に湾曲したコースをつばぜり合いを演じながら駆けるトップスピードはオートバイを超え車と比肩する。追い縋りあう出走者以外の世界は横に引き伸ばされ抽象化される。時折前のウマ娘が蹴り上げた土埃や石がこちらへと飛んでくる。それ例外の全ては捨象されていく。
 気が付くと、永遠に思える時間を抜け出し、誰かがゴールに到着する。その瞬間を目に収めるために、大勢の人々がテレビやネット配信にかじりつく。レースで勝利して有力と見なされるウマ娘は名声を獲得し、メディアの取材が殺到する。これら全てを維持できるだけの巨大産業が形成されている……

 ウマ娘プリティーダービーの世界のある種の異様さを思い起こすとき、同時に我々の生きる世界にいかに必然性が無いかということを考えさせられる。こうして列挙すると奇妙に思える作品世界だが、そもそも我々の世界にも街の真ん中に巨大な競馬場と駅があり、新宿駅の横長モニターではアニメやドラマの広告が流れ続け、テレビでアイドルを目にしない日は無い。
 きっと古代ギリシャの人々が現代日本を見たとしたら、ウマ娘のそれと同じくらい奇妙に思えるに違いない。ウマ娘の世界に必然性がないように、我々の世界にも同様に必然性がないということを、劇場版ウマ娘プリティーダービー 新時代の扉を観ていてふと思い出した。
 言い換えれば、この世界はある種の鏡なのだ、とそう信じさせるような説得力を持っている映画だと言える。そして、ウマ娘というコンテンツで映画を作るという行為自体への言及に満ちた作品と見ることができる。

マイブリッジの疾走する馬の連続写真

マイブリッジのウマ


 一番わかりやすい部分は映画冒頭だ。抽象的な言葉でウマ娘たちの物語を語りながら、画面にはゾートロープが映し出される。ウマ娘が走っている様子を横から捉えたその映像は、マイブリッジが世界で初めて連続写真を用いて捉えた馬の走る姿の明確なパロディであることは間違いない。後程さらにはっきりしたオマージュのカットが挿入されるが、あえて一本化せずにここでいったんゾートロープがモチーフに用いられていることは興味深い。というのも、ゾートロープが全てにおいて先であって、映像は後だからだ。
 エジソンがキネトスコープを開発したのは1880年代末から1890年代初頭の間であり、リュミエール兄弟がキネマトグラフを発明したのは1893年の事だった。しかし基本的に円盤やスリットのみで構成される簡単な仕組みのゾートロープがアニメーションの再生できるおもちゃとして発明されたのは19世紀前半の事で、半世紀近く先んじていたことになる。その間映像とは玩具であり、アニメーションのことだったのだ。マイブリッジもまずは撮影できた連続写真をゾートロープ化し(正確にはズープラキシスコープというガラス板を用いた投影できるタイプのものである)、講演会などで人々に体験させていたという。これは中央に穴の開いた円形のガラス板に人の手で馬の姿を書き写す必要があった。
 このように映像のはじまりがアニメーションであるからには、アニメ映画という物自体が特別な価値を帯びてくることになる。しかもその成り立ちには走る馬の姿がアイコニックな形で表れる。映画冒頭、わざわざマイブリッジのウマ(とここでは呼ぶ)を二種類の形で見せたのは、「ウマ」で「アニメ」「映画」を作るという事への言及だったように感じてならない。

アグネスタキオンの瞳


 映画というモチーフは他の場面でも登場する。主人公ジャングルポケットの宿敵として立ちふさがるウマ娘、アグネスタキオンが研究室として占有しているトレセン学園の一室には、様々な科学器材が置かれている。だが一度注意してみると、その品物がちぐはぐな事に気付く。
 PCや点滴台に吊られた二色の奇妙な薬品はいいとして、天体望遠鏡やミッチェル映画カメラが中央に置かれ、奥の壁に16mm以下の映写機が安置されている(ここに顕微鏡も加えると、光学機器に偏重していることもわかると思う)。仮に人間がスポーツ科学を研究するならば、酸素吸入器やランニングマシン、心電図や筋電位計を必要とするだろうが、それらは逆に見られない。特に35mm映画カメラは何度も画面内に登場し、強烈でないにせよ、何か消せない印象を残す。
 同様に印象的なのはアグネスタキオンの瞳だ。その真紅さが記憶に残るのは、その目が常に見開かれ、所々で強調されるようなカットの作り方をされているからに他ならない。極限状態に追い込まれたジャングルポケットの見せる三白眼と対比で、水晶玉のようなアグネスタキオンの見開かれた瞳は、彼女がジャングルポケットの生きる勝負の世界とは別の価値観に身を置く人間(ウマ娘)であることを印象付ける。
 彼女はあくまで科学的にウマ娘の速度限界を追及する事にしか興味が無く、ジャングルポケットのような誰かとの対決を、選手の底力を引き出すいち要素としてしか見ていない。そのためなら競争相手のみならず、自分の身体すら代替可能な実験材料でしかないという立場で競技に接し、とうとう足を故障してしまう。(ちなみに筆者は現実で人間に適用されるこの”故障”という表現すら凄まじいなと思っている)
 彼女の自他に向ける冷徹な視線は、マイブリッジらが先鞭をつけた映画の眼であり、映画の眼はすなわち科学の眼であるのだ。マイブリッジが一列に並べた写真機とワイヤを用いて馬の走る様子を撮影したのは、”馬の足が地面からすべて離れている瞬間はあるか”という賭けの結果を確かめるためであったが、この瞬間から連続写真は、生物や物体の運動を克明に分解するための最も有効な研究手法となった。後に連続写真の影響は芸術の世界にも及び、とりわけイタリア未来派に深く関係している。
 

ハードルを越える人間の動きを連続写真的に分解している

 いや、連続写真や映像以前に、そもそも写真が誕生した時点でそれが科学の発展に供される事を期待されていた、と言ってもいい。フランスにて発明者ダゲールからダゲレオタイプを見せてもらったサミュエル・モールス(モールス信号の発明者)は、ダゲレオタイプが自然や科学現象の詳細な研究に使えるだろう、と本国に書き送っている。市販された初の写真機であるジルー・ダゲレオタイプは、その困難な撮影条件にもかかわらずどんどんと屋外に持ち出され、アルプスの山々や海の向こうの異文化を撮影するところまで到達する。それまでは人の手によるスケッチしか手段が無かった科学研究の記録に、究極の”写実”が持ち込まれた意義は計り知れない(これは一方で妖精が乱舞するトリック写真の登場とも表裏をなしている)
 カメラという存在を、ペンを走らせる観察者の主観に左右されない冷徹で機械的な眼、と位置付けた時、そこにアグネスタキオンの瞳が常に大きく見開かれている理由がある。映画カメラ=科学の眼=アグネスタキオンの瞳なのだ
 ところで、わざわざマイブリッジの例を引き合いに出さなくても、競馬と映像カメラの関係性がいかに深いかは理解することができる。全国にJRAの競馬場は10、地方競馬場は15あり、そのいずれにもテレビカメラが据え付けられている。テレビをつければかなりの頻度で競馬実況が放送されており、膨大な数のレースがカメラに記録され、いわゆる名レースとされる映像は繰り返し繰り返し視聴される。こうした膨大な映像の蓄積がある時点からの競馬の歴史を作っていると言っても過言ではないだろう。作中後半、アグネスタキオンがレース中継の映像を繰り返し再生していたシーンを思い出してほしい。

ジャングルポケットと虹色

 主人公ジャングルポケットはアグネスタキオンと真逆の存在として描かれている。つまり、直情的で血気盛んで、レースで勝負を挑み、勝つことをなにより重要視している。そのそりの合わなさはなかなか解消されない。
 彼女の大切にする多面体にカットされたアクセサリーは物語上のアイテムとして度々登場し、ジャングルポケットに起こる心理上の変化を描き出す。ある時は空中で輝き夢そのものを体現し、傷付くことでジャングルポケットの心に見える陰りを暗示し、また誰かに託された想いの象徴として機能する。
 このアクセサリーが常に虹色に輝いているように描写されるのは興味深い。おそらく白色の日光を分光した光なのだろうが、このアクセサリーが画面に描き出す些細な虹色のグラデーションには、それ以上の意味が込められているように思われる。
 光は水や空気と同様に生活空間に必須の物であり、その普遍性、重要性から光学の研究は古代から続けられてきた。例えばアイザック・ニュートンは性能の高い望遠鏡を作ろうとした際、レンズの性能から来る色収差の問題に悩まされた。従来の屈折式望遠鏡では色が(虹色に)滲み、観察する天体の輪郭がぼけるのだ。ここからニュートンはプリズムなどを使った光学の研究に集中し、1704年に出版した著書『光学』の中でその結果を纏めた。
 余談であるが、その中でニュートンは、光が粒子であるという主旨の説を唱えている事に注目しておきたい。アグネスタキオンのタキオンが超光速の粒子として仮定された存在であることを踏まえると、プリズムの屈折のちらつきは、前方から後方へと放射される光の粒子そのものを暗示しているようにも見える。物語冒頭付近のレース、優勝候補と目されるテイエムオペラオーが前方集団に執拗にブロックされるシーンにて、蹴り出された石がオペラオーの額に直撃する。レースで前方を見るジャングルポケットにとっては、先行するウマ娘の放つ光の粒子=姿自体がこの石のような存在として目の中へ飛び込んでくるのだ。そしてたとえ光の速度に追い付いたとしても、その先にはタキオンの幻覚がある、というわけである。

 物語終盤でジャングルポケットが虹色に光りながら限界を突破するその瞬間、虹色の残光がソニックウェーブのごとくターフへとまき散らされていく。アニメーションのタッチは写実からどんどんと遠ざかり、荒々しい、心象の世界へと突入していく。ウマ娘の映画のクライマックスにアニメーションでしか達成しえない表現を置いたのは、写実=現実を超克する瞬間を描写する必要があったからなのではないだろうか。そこを突破した先にだけ、故障を克服し、モデルになった馬同士の活躍した時代をも超越して実現する、ウマ娘的なイフのレースが待っているのだから。
 
 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?