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坂元棚田への道-農業土木技術者の育成-

地租改正によって、はじめて土地を得た農民たちは、意欲的に農業に取り組みはじめた。生産量を増やせば所得向上につながるため、いろいろな工夫を始めた。農民たちがまず最初に取り組んだのは、耕地の区画整理だった。少しでも効率的に農作業がしやすいように区画を整え、無駄なく栽培できるようにすることで収量アップを期待できる。しかし、狭い農地で農作業を細々とすることを続けてきた農民たちには、どのような区画にすれば効率よく作業できるようになり、収量を増加させることができるのかわからなかった。またそれを指導できるような人々もおらず、専門家と呼べる人物はほとんどこの日本に存在していなかった。

日本における農業に関する高等教育は、明治9年の札幌農学校、明治11年の駒場農学校の開設から始まる。札幌農学校は、マサチューセッツ農科大学学長のクラークを教頭にして発足した。「少年よ大志を抱け」で有名なあのクラーク博士である。この学校では、きわめて実践的な開拓指導者の養成を志向し、基礎科学を重視したアメリカ的開拓学を教えた。駒場農学校は、当初イギリスの農学を日本に移植するために開設された。当時のイギリスの農学は、世界で最も早く近代的農業革命を実現していたためである。しかし、政治的状況が変化したため、ドイツ農学の移植へと方向転換することになった。明治19年に、駒場農学校は東京山林学校と合流して東京農林学校となった。このときに農業土木と土地改良論が講義科目に加わり、はじめて耕地整理(農地の区画整理)に関わる学問が出現した。この講義を行ったのが酒匂常明という人物である。その後、明治23年に文部省の強い要請により、東京農林学校は帝国大学農科大学となった。これは日本政府が、農学を新しい学問へと昇華させようとしたためであった。

耕地整理に関わる学問は、ここにようやく登場したが、それはまだ体系的なものではなかったという。学問として体系的に整えたのが、東京農林学校で最初に講義を行った酒匂常明であった。彼は明治20~24年にドイツへ留学して体験した近代化農業をもとにして、明治25年に「米作新論」を書き上げ、外国と日本の土地整理の比較を行った。さらに明治26年には「土地整理論」を発表して、農地を区画整理(耕地整理)することの利点を十大利益としてまとめ、提唱してその必要性を説いた。これらの著書によって耕地整理の必要性が日本社会に広がり、やがて明治32年の耕地整理法の制定へとつながっていった。

この頃に学生時代を過ごし、明治28年に帝国大学農科大学を卒業したのが上野英三郎という人物である。上野は大学院で耕地整理と農具の研究を行った。とくに農学ながら物理学や数学が得意で、西欧の土木工学や機械工学を好んで学んでいた。農学と土木工学の知識を基礎として、耕地整理や灌漑排水の技術を総合したものを上野は「農業土木学」とよんだ。

農商務省は明治38年の耕地整理法改正を機に、不足していた耕地整理(農業土木学)の専門技術者養成に本格的に乗り出した。耕地整理講習制度を定め、東京高等農学校(東京農業大学の前身)に依頼して、中学校卒業者を対象に講習を開始したのだ。明治39年には、東京帝国大学農科大学にも依頼し、在学生や卒業生を対象とした講習も開始した。農学部と工学部の卒業生(農学士・工学士)や在学生を対象とした耕地整理第一種講習、農学と工学の専門学校卒業を対象とした耕地整理第二種講習、そして東京高等農学校で行われていた中学校卒業者を対象とした耕地整理第三種講習と分けて、実務者を養成していった。これにより、耕地整理講習受講者という形で農業土木技術者集団が形成されていった。第一種および第二種講習の修了者数は明らかではないが、第三種講習については記録が残っており、明治年間に866人、大正年間に2847人の実務者が誕生したという。明治後半以降、昭和10年代までの耕地整理事業・土地改良事業はこれら技術者に寄るところが大きい。この講習会を母体として明治40年には耕地整理研究会が発足し、後に農業土木学会の発足へとつながっていく。

明治初期の田区改正、耕地整理法の施行、耕地整理技術者の養成といった耕地整理に関する認識が熟成されてきたころの明治44年、ついに東京帝国大学農科大学に耕地整理に関する学問を専門的に教育し、研究する農業工学講座が誕生した。そして、その初代講座主任に任命されたのが上野英三郎である。上野博士は欧米の土地改良関係の原書を読みあさり、耕地整理をはじめ農業土木全般に関する西洋科学技術を吸収し、明治35年に「土地改良論」(有働良夫と共著)、明治36年に「農用工学教科書」、明治37年には「農業土木教科書」を刊行した。そして、明治38年に東京高等農学校で耕地整理講習会が始まると、その講師を勤めることになった。この時の講義ノートに加筆して書き上げたのが「耕地整理講義」である。このとき上野博士は若干33歳。しかし、明治38年に刊行されたこの著書は、耕地整理技術に関する初の体系的な研究書として評価され、その後の耕地整理事業、日本農業土木事業の規範的図書となった。その後昭和38年に新沢嘉芽統・小出進著「耕地の区画整理」が刊行されるまでの60年間にわたって唯一の著書としてあり続けた。戦後の1955年に農林省が作成した「土地改良計画設計基準」の区画整理編は「耕地整理講義」とほとんど変わないものだったという。それほどこの著書の内容は普遍的でかつ先駆的なものであったのだ。この著書は上野の代表作であり、また日本農業土木学の原典と目されているのである。

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