棚田のはじまり

棚田はいつから日本にあるのだろうか。その歴史はまだ十分に明らかにされていない。日本における棚田研究の第一人者である中島峰広は奈良県大和盆地における地形や遺跡などの状況証拠を元に、古墳時代にはすでに、緩い傾斜地を持った狭い谷の谷底に、土坡(どは)で築かれた迫田型の棚田が出現していたと推察している(1999)。しかし、明確な証拠となる文書の形で「棚田」が登場するのは南北朝時代(1338年)になってからとされている(水野、2014)。

日本棚田学会誌には、棚田のはじまりをめぐる研究がいくつか報告されている。それによると、「棚田」という語句で傾斜地に開かれた水田を表現することよりも、「山田」と表現することの方が一般的だったという。「万葉集」にも山田に関する和歌が収録されているほか、山田と記述された文書は平安期(794-1192年頃)のものにすでに多くあるという。山田という記述はなくとも、傾斜地の水田の状態をあらわしたものも数多く残されているらしく、大和盆地(奈良県)のように、古くから開発が進んでいた地域では、平安末期には丘陵や山麓で棚田の開発が進んでいたと推測されている(水野、2014)。しかし、これらも近畿地方のごく一部の地域に限られていて、広い地域で現在のような棚田の景観がみられるようになるのは近世以降になってからである。

江戸時代、傾斜の緩やかな地域から開発が始まり、取水施設や用水路を築造できるような技術を持つようになってから少しずつ棚田が造成されるようになった。しかし、棚田は一般的に生産性が低いため、租税の対象にならない水田として位置づけられていたため、あえて開田しようとする意欲は高くはなかった。とくに幕府や藩による開田は平野に隣接する丘陵部などに限られ、山間地域では農民がわずかな土地を少しずつ耕していく形での棚田の造成が見られる程度であった。

明治維新後、地租改正によって土地の私有権が認められ、税をお米ではなく貨幣で納めることになったことで、農民の開田意欲が高まった。加えて、西欧に学んだ様々な技術の導入によって、大規模な取水施設や水利施設を築造できるようになったことから、それまで開発が難しかった山間の急傾斜地にも多くの水田、つまり棚田が産まれていった。

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