社会的責任ってなんだっけという話

ほんの数日前、小児性愛とベビードールのレポ漫画がTwitterに流れて、それに対して書かれたnoteがあったので、拝読させていただいた。
それらに対して批判的意見を述べるつもりもなければ批評をするつもりもないのだけれど、少し思ったことがあるので、書き残しておこうと思った次第。
なお、そちらの記事の本題とは少々ずれるのでリンク等は割愛させていたければ。

最初に述べておくと、小児性愛者が子どもに手を出すことは犯罪で、それらの性的嗜好についてまったく共感出来ないし、実際に行動に起こす人間を擁護するつもりは一切ない。

ただ、ふと思うのは、小児性愛者が抱く性的衝動と、大多数が抱く性的衝動は、対象が違うだけで近しいものなのではないかということ。「違うわい!」と思う方もいるかもしれないのだが(実際専門的に見ると違うのかもしれないが)……大多数が子どもに性的興奮を覚えないのと同じように、小児性愛者は大人に性的興奮を覚えない。大多数の中で性的衝動を抑えられない人が暴行に走るのと同じように、小児性愛者で性的衝動を抑えられない人は反社会的な存在として顕在化する。
私の日常では小児性愛者と関わる機会なんてないし、身近にいたところでカミングアウトするわけもない。実は知らないだけで、思っているよりもそういう人間は多いのかもしれない。
そういう人間が現実にいる以上、「じゃあ、そういう人たちはどうやってそういう欲望を発散させているのだろうか」と考えざるを得ない。
実際の子どもに対して発散させた時点で犯罪とされる欲求なわけだが、湧いてしまった欲求はどこへ行くのだろう。勝手に消えたりしないだろう。おそらくは、ベビードールやなんやかやで発散させているのだろうなと想像はするのだけれども。
大抵の人間には理性があるし、社会的地位や罪を犯してはならないという意識を持っているだろうから、ある程度は我慢は出来るだろう。でもその許容量は人によってそれぞれで、押さえつければ押さえつけるほど、弾けた時が恐ろしい。一生抱え込んでいける人もいるのかもしれない。でも、いつか破綻する人もいるかもしれない。そういう爆弾を抱え込んでいる人が、身近に、子どものそばにいるかもしれない。

偶然CNNの記事を目にしたが、FBIの発表によると毎年76万5000人の子どもが行方不明になるそうだ。40秒に1人消えている計算とのこと。そのすべてが小児性愛のためではないが、子どもの需要はそれだけあるということ。日本でだって同じくらい需要があるのではと考えると、自分が無事大人になれたことが奇跡なんじゃないかとさえ思う。
性的対象が大人である場合は、恋人を作ったり一夜限りの相手を探したりお金を払って欲望を発散させればいい。発散させる手段は、選り好みさえしなければいくらでもある。複数の手段で捌け口を持つ人間には、発散させる場がない欲望を持て余す人間の気持ちは理解できないだろう。だからって、お金を払って子どもを買える店やポルノを用意するわけにはいかないのだから、実質、欲望を叶えることは不可能でしかないのだけれど。
そういう欲望を抱く人間が、好き好んでそういう性的嗜好になったわけではないのなら、大変苦しいことなんじゃないかと想像する。(小児性愛者の中には、過去に被害に遭っている人もいると聞く)性的嗜好を変える手段はないものかと、つい単純な答えを求めてしまうけれど、そんな手段があれば、今の世の中はもう少し平和なのだろうなと思ったりもする。

件の記事では、社会的責任という言葉を、小児性愛者に向けて使っていた。
確かに、この社会で生きるからにはそういう責任は生じているし、彼らの欲望のために子どもを消費し、生涯消えない傷を負わせるなんてことは絶対にあってはならない。最初にも書いた通り、共感するつもりも擁護するつもりもない。
ただ、社会的責任という言葉を使うのなら、すべての大人に子どもを守る責務があって、その責務は小児性愛者に自分の欲求を抑え込めと言うだけではなく、そういう性的衝動から如何に子どもを遠ざけるか、そういう性的衝動をどうやって子どもに向けさせないかを考えることを含むのではないか、と思ったのである。

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