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読書記録 / 三好愛『ざらざらをさわる』

 何でもない日常のほんの一瞬の出来事、些細な事柄だけれど、当人にとっては何か象徴めいた感じがして何度も思い返しては胸に刻みつけているような記憶を、誰でも一つや二つ持っているだろう。

 小学校高学年のころ、とても絵の上手い友人がいた。その子は小学校の最後の3年くらいしか一緒にいなかったのでその後どうなったのか今となってはわからないが、今は絵を仕事にしているんじゃないかと思う。そのくらいずば抜けて絵が上手だった。それだけでなく、当時からパソコンでいろんな情報を仕入れていたようで、物知りで大人びた子だった。きっかけは覚えていないが、わたしはそんな子と登下校を共にしており、放課後にお互いの家に遊びに行くような仲だった。
 ある日、わたしの家に遊びにきたAちゃんはフリルの描き方を教えてくれた。Aちゃんがドレスを着た女の子を描いている横で、わたしはドレスのフリルだけを一心不乱に描き続けていた。Aちゃんが帰る準備をしているのにも気づかずわたしは夢中になって練習しており、「もう帰るからねー」というAちゃんの呼びかけにも生返事で紙に向かい続けていたら、Aちゃんが一言、「帰るのにお見送りしてくれないんだ」と怒気を含ませて呟いた。わたしは初めて聞いたAちゃんの声にはっとして、棘がちくっと刺さったような気がして、さも今初めて気づいたかのように、「えっもう帰るのー」と立ち上がって玄関に向かった。
 たぶん本気で怒ってた訳ではない、と信じたいけれど、あの時の自分勝手な行動とそれを誤魔化してなかったことにしようとした自分がとても恥ずかしくて、たまに思い出しては苦い思いをしている。でも、なかったことにしたいとは思わない。何となく、あの一連の流れはわたしには必要だった気がするのだ。

 これがわたしのざらざらした記憶。本書に収録されている三好愛さんのエピソードは決して教訓めいてはいない。何をどう乗り越えたかとか、何にどう対処したというよりも、こんなことがあってこういう気持ちになりました、というのが素直な言葉で書かれている。たとえば、タンメンにコバエがたくさん浮いていて、一緒にいた友だちは全然同情してくれなくて、お店の人は申し訳ない顔をしていたけれど、わたしは少ししか食べずにお金を払って帰りました、というエピソードがある。そしてその後、鍋にコバエが飛び込むイメージが時折頭に浮かぶのだという。このくらいのもやもやした気持ちはどこにも吐き出せずに頭の中をぐるぐる巡って離れない。人に話そうにも笑い話にはならないし、そういう意図がなくてもきっと聞いた人を嫌な気持ちにさせてしまうと思うと話せないままになり、心に居座り続けるタイプのエピソードである。この絶妙な質感を覚える体験を誰しも経ているはずで、わたしたちは「そんな感じの小さな体験をかさねることで、ゆらぎながらも個をかたちづくり、毎日を送っているの」(183)だ。

 素直な言葉で、と記述したが、言い換えれば著者の取り繕っていない本当の記憶を追体験しているような気分になるのだ。三好さんは日常のふとした瞬間にコバエが鍋に飛び込む様子を想像してしまうのだな、生活にそのイメージが組み込まれているのだな、と感じる。

 嬉しいことも嫌だったことも全ての経験は今のわたしに繋がっているんだと思えば、過去のいろいろも全部ひっくるめて同じ温度で見つめ返せるんじゃないか。本当に嫌なことは封印したままでもいいけれど、ちょっとちくっとするくらいの出来事はもっと大切にしてみようかな。好きも嫌いも、どちらもわたしを形作る大事な要素だから。

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