読書記録 / 筒井康隆『ロートレック荘事件』
本書を紙媒体で読むことができてよかった。
章によって語り手が違うとは思ったが、ここまで入り組んでるとは思わなかった。語り手の変化に気がつかないのは重樹と修が行動を共にしていること、修が重樹に献身的、協力的であること、名字が同じであること、大きく括れば芸術分野で名声を得ていることなどが挙げられる。読者は文章からできるだけ詳細に場面を想像しようとするが、この小説においては意図的に情報を制限して浜口氏がその場には1人しか存在していないかのような錯覚を覚える。しかし著者は、登場人物は、嘘をついているわけではない。視点が移り変わりに読者が気がついていないだけで、書かれていることはすべて真実である。だから結末に不満を抱くことはなく、してやられたという感情が湧き出てくるのである。
決定的な瞬間は犯人以外の視点で語られるというのはずるい。しかし見抜けなかった読者に落ち度があると思わせてしまうほどよく練られた文章だ。思い返してみると夜中に一人女性を訪ねるシーンや洗濯物を抱えて行くシーンなど確かにところどころ違和感があったし、全体を通してセリフの追いにくさや読みにくさがあった。しかし身体障害がどれくらいなのか検討がつかないため障害はそこまで重くないのか、一人でも行動できるかと思ってしまう(現に犯行は一人で行なっている)し、セリフに突っかかりを覚えるのは自分の読解力不足だということになり、些細なことだと意識を流れていってしまう。それよりも早く読み進めたいという気持ちがページを繰る手を止めない。
この小説は短さも読者を騙すのに一役買っているのではないか。実際200ページくらいならすぐ読める。読めてしまう。電車で読んでいる人は目的の駅に着く前に、喫茶店で読んでいる人は店員に声をかけられる前に読んでしまおうと思うが、それが落とし穴だ。そう思った時点でもう著者の術中にはまってしまっている。もういっそのこと気持ちよく罠に引っかかってしまおう。
わたしは紙媒体で読むことを強く勧めたい。なぜなら紙の本だとあと何ページくらいあるのか体感的にわかるし、そうであれば早く読んでしまおうという作用がより強くはたらくからだ。