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実はみんな「無能」って話

大学に入って、いかに自分が何もできないかがよくわかる。所詮自分は受験勉強しかできなかった存在なのだと思う。いや、それすらも怪しい。周りを見れば、スポーツもできる人や、物理や数学を極めている人、プログラミングのできる人、バイリンガルやトリリンガルの人、考え出すとキリがない。

でも、この世のことが全てできる人はいない。神様はそんなふうに人間を作ってはいない。どこかでみんな「有能」であり、「無能」なのだ。工業高校を出て、工場で働いている友達がいる。彼は毎日立ち仕事で朝から晩まで働くそうだ。夜勤もあるらしい。これってすごいことなんじゃないか。確かに勉強に関していえば僕の方ができるかもしれない。でも毎日仕事に出てきっちり働くことは僕にはできない。だから、「有能」とか「無能」とか言う話をすること自体、ナンセンスなのである。

現代は実力主義、能力主義の時代だと言われる。確かに過酷な国際間での競争を勝ち抜くためには、ある程度能力基準で人を判断しないといけないのかもしれない。でも、そういう考えが行き進めば、「あなたは何ができるか」という考えでしか人と関われなくなるのではないか。他人を、自分に何かをもたらす道具としてしか見れなくなってしまうのではないか。そんな社会が楽しいだろうか。人を出し抜き、利用し、自分がのしあがる為なら手段を選ばない。そんな人間ばっかりで楽しいのだろうか。

これは何も「みんな仲良く平和にいこうぜベイベー」的なお花畑な考えを主張したいわけではない。ただ、能力だけで人を測るのはとても危険なのではないかと思うのである。

大学受験を突破した自分は、他人よりは多少「勉強ができる」人間だったのかもしれない。でもそのたった一つの物差しで評価されたからといって、何も僕という存在が評価されたわけでもなんでもないのである。

多分、能力主義がここまで蔓延したのは、この国を動かす政治家や官僚たちが、「受験勉強」という一種の競争の勝者だからなのかもしれない。

僕は「有能」だから、もっと評価されるべきなのだ。努力して有名大学への切符を勝ち取ったのだから、それ相応の報酬をもらって当然だ。

まあしかし、こういう考えになってしまうのは分からなくもない。「自分が苦労した分、報われなければならない」と考えるのに無理はない。

しかし、自分が受験勉強に打ち込めたのは誰のおかげなのだろうか?

この答えは、「全世界の人間すべて」だと僕は思う。

まず、自分を養ってくれる親や、自分の支えとなる先生、友人のおかげであることに異論はないだろう。そして、親や先生、友人が生活できるのは、そ人たちの周囲の人々のおかげなのである。そしてその人たちが生活できるのは、そのまた周囲の人たちのおかげなのである。。。。

こう考えれば、「全世界の人間すべて」という答えに辿り着くだろう。世の中に生きる人全ての人がかけがえのない存在であり、社会が必要とする存在だと僕は思う。

だから、「努力したから報われなければならない」という考えは、ひどく自己中心的で的外れな考えなのだ。この社会のみんなによってあなたは合格できたのに、その恩恵を自分だけが味わおうとしているのである。

この国は、ますます人と人とのつながりを軽視する国になっている。できるかできないか、お金が稼げるか稼げないかみたいな国になっていると僕は思う。新自由主義の下、キャピタリズムがひどく進行している。そんなこの国では、「できない人」「社会に(人と比べて)貢献できない人」はゴミクズ以下の人間として扱われる。どうしてなんだろう。「できる人」「社会を大きく動かす力のある人」が、そういった恵まれない人たちを助けてあげれば、きっと社会はもっと明るくなるのに。

結局、自分の立場を守りたいだけなのだろう。建設現場の作業員、トラックの運転手、コンビニ店員、保育士、看護師、いろんな人たちのおかげで僕たちは生きている、生かされているという事実を忘れてしまったのだろうか。

ドラマ「女王の教室」での、こんな名言がある。

愚か者や怠け者は、差別と不公平に苦しむ。賢いものや努力をしたものは、色々な特権を得て、豊かな人生を送ることが出来る。それが、社会というものです。(中略)いい加減、目覚めなさい。日本という国は、そういう特権階級の人たちが楽しく幸せに暮らせるように、あなたたち凡人が安い給料で働き、高い税金を払うことで成り立っているんです。そういう特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでるか知ってる?今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。世の中の仕組みや不公平なんかに気づかず、テレビや漫画でもぼーっと見て何も考えず、会社に入ったら上司の言うことをおとなしく聞いて、戦争が始まったら、真っ先に危険なところへ行って戦ってくればいいの。

ネット上ではこの名言は、「小中学生に教えるべき」「もっと早くに知っておきたかった」「この世の真理」などと絶賛されている。

しかしどうも変ではないか。この名言にそって考えると、愚か者と賢者の間で人生の豊かさが変わっても当然だということになってしまう。しかし先ほど述べたように、賢いとか努力できるとかって、自分一人の力ではどうにもならんことなのだ。世の中には両親のいない人もいる。貧しい家庭で育った人もいる。虐待を受けて心の傷を負い、努力することができない人もいる。そういう人たちが愚か者や怠け者になったとして、「当然」貧しい生活をするべきなのだろうか。そういう人たちが特権階級の人間たちに搾取され続ける人生を歩むのは「当然」なのだろうか。

いや違う。本当に阿久津先生が教えるべきことは、「競争に勝ち抜いて特権階級になれ」という薄っぺらいアドバイスではなく、「そんな社会でいいと思うか」という問いの投げかけなのである。

どうも僕たちは「社会のルール」というものを神格化しており、そのルールの中で生きることがかっこいいと思っている。社会のルールの中で生きることが大人なのであり、当然果たすべき義務なのだと。

まだ青二才な僕にとっては、甚だ疑問である。この社会のルールに疑問をもち、積極的に改善すべき点を訴えていくからこそ社会が良くなるのではないか。なぜルールの中で生きることにこだわるのだろう。ルールを変えていこうという気概があってもいいはずである。

韓国、台湾、同じ東アジアの国でも、これらの国は自分たち民衆の手で軍事政権を倒し、民主主義を勝ち取った。この国では、民主主義というものはGHQから与えられ、自分たちで勝ち取った経験がない。そんな国だから、社会のルールからはみ出すことをよしとしないのだろう。おそらく、これには日本人の適応能力の高さが関係していると僕は思う。

1 社会に不満をもつ
2 なんとか社会を変えたいと思う
3 自分たちの力では無理だと思う
4 それなら社会に適応しなければ居場所がないと思う
5 社会に適応しようとする
6 社会に適応している自分を素晴らしいと思う
7 ルールを変えようとしている人に腹が立つ

まあこんな経緯だろう。1〜5までは、時に必要なプロセスである。やはりある程度の「ルール」「社会の取り決め」は必要である。しかし、その「ルール」が一部の人が得するようにだけ作られていて、全く公平性に欠けるものだとしても、その事実を無理矢理受け入れようとしてしまうのである。ここに問題がある。この「ルール」は仕方がないものだと。この社会で生きていくためには避けては通れない道なのだと。

受験勉強をして大学生という、50%の人が通る道を通っておいてはなんだが、なんとも夢のない話ではないか。僕たちは、僕たちがより幸せに暮らすために、この社会を変えていくことができる。その権利を無視して、今のルールに乗っかって、美味しい思いをしようなんて、なんと惨めな発想じゃないか。

大学生という、子供でも大人でもない複雑な時期に、僕はこの理想を捨てるべきか悩んでいる。こんなくだらない理想なんて捨ててしまえば楽なのかもしれない。社会でも評価され、皆が羨む生活ができるかもしれない。でも、それで僕は心の底から幸せになれるだろうか。形だけの富や名声で心が満たされるとは思えない。だから、この理想は捨てないでいたい。どれだけ周囲に馬鹿にされようと、手放さずにいたい。僕が作りたい社会は、真面目に働く人が報われる社会。正直者が馬鹿を見ない社会。どんな人でも見捨てない社会。

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