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「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」文学的メタ論評~運命は新しい世界と人物によってようやく進み始める

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を観てきた。2週間くらい前に「もう大人になってしまったから、エヴァを楽しめるかは疑問?」と言う記事を描いたのだが、まさにシン・エヴァはそこをついてきた作品だった。(なるだけネタバレしないで書くよ、今はね)

加えて公開日に予測したゲンドウが大人になることで世界は変わると言うのがまんま的中したのにちょっと吹いた。

でもこれはなんで予測できるかって言うと方法は二つあって、1、制作中の記事から推測するか、2、ストーリー展開としてそうなるべきことを推測するかである。

私は後者をメインで考えるが、とくにエヴァンゲリオンって作品はその前に2作あってQで世界観を破壊されても根底には「失ってしまった悲しみ」に対する美学が貫かれている(詳しくは岡田斗司夫のYouTubeから探して欲しい)。となれば、失った悲しみと言うのはいつかは必ず言えることから、この作品が終わりを迎えるならそれは喪失感の克服に他ならない。それがシン・エヴァンゲリオンというシリーズ最終作だ。ちなみに漫画版がハッピーエンドで終わっているように、どこかでエヴァはハッピーエンドになるように設計されている。というのは別にGAINAXでもスタジオカラーでも、庵野でも他の誰かでも必ずこの作品は人気がある限り、誰かしらがハッピーエンドを作る運命にある作品なのだ。というのは、「人はなぜ不幸にならないのか?」という問いに対して、「人は慣れていく生き物だから」と答えたアルベール・カミュの「異邦人」が私の前提に敷かれているからだ。(別の例で言い換えるなら、キリスト教における予定説や魂の救済、仏教の輪廻の解脱(悟り)というワードだろう)

しかし、仏教でもキリスト教カルヴァン派の予定説でも、因縁という関係から、「元々救われる余地のないところに救済は訪れない」のである。それは我々がどんなに願っても叶わない夢(例えばサッカー選手になりたいが、その身体能力がない等)があるように、水が引けない砂漠で植物が育たないように、元々可能性がないところには希望は見出されないからである。

その点で考えるとアニメ版・旧劇と同じような設定の状況下では(少なくとも庵野作品では)人類補完計画はシンジの成長がままならない状況下なので決断が出せずに中途半端な世界をもう一度繰り返すことになる。

貞本作品は元々貞本の方が庵野よりも少し大人の目線(父としての目線が存在している)があるため、しっかりシンジ一人でしっかりした決断が下せ、ハッピーエンドになる(最後の描写からおそらくアスカと結ばれる(と信じたいし、あの描写は文学や映像作品ではアスカと結ばれる示唆となるはず)ことになる。だって綾波は人造人間だし、結果エディプスコンプレックス的な母親みたいなものだし。個人的には綾波のが好きだな〜)

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しかし、庵野の世界観ではシンジは今まで独り立ち出来なかった。そこにちょっとだけ異物を混ぜてみると、未来は少しだけ変わり始める。なぜなら、同じ設定と同じ人物・環境では同じ答えしか導かれない。

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だから、マリが必要だし、新しい展開や結末の担い手はマリとなる。その伏線として、マリの逸脱的な鼻歌で「破」以降の新劇場版は始まる。つまり、これが分岐する世界であることの証だし、唯一ループから救う手綱なのである。

また人物設定については詳しく述べたいが、一旦文学的な道筋としてははなからマリは「仕組まれた運命」を背負わされた血塗られた存在で、嫌われるように設計されたキャラクターなのである(まさにマグダラのマリア)。

もう一点、メタ視点ではこのポッと出のキャラクターが「選ばれし者」となる理由がある。それはモヤっとさせる商業的な理由である。

エヴァンゲリオンは実は不安産業である。ファンの期待に答えないのが、エヴァであり、それを裏切り続けることでエヴァの呪縛を生み出していた。おそらく我々は今回で解放されたのではなく、むしろより強い呪縛にかけられたのである。

また色々追って話したい。


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