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言葉と思い出の繋がりと、共感性に関して考えさせられた話

冒頭から少し暗い話になってしまいますが、直近で祖母が亡くなり、急遽帰省して通夜や葬儀をしていた時に感じたのですが、親族の葬儀に参列した時、人によっては悲しいけど涙は出ないなと思う人も多くいると思います。

僕自身も、今回は祖母だったのですがそこまで多く会えていた訳でも無かったので、お別れ時に顔を見て実感が湧いて涙が出たくらいで、それ以外では泣く程、自身の感情が揺さぶられる感じがしていませんでした。

そのまま葬儀終盤に入っていったのですが、従兄による孫からの言葉を聞いている時にふと、「自分自身だったら何を言うかな?」と思い、頭の中でシミュレーションをしてみました。

すると、始めてすぐに目頭が熱くなりました。
そして、それまで特に出てこなかった祖母との思い出や気持ち等が一気に溢れ出したのです。

その時、泣き出した自分自身にも驚いたのですが、同時に言葉にするだけで情景や普段思い出せないようなことまで鮮明に思い描くことが出来ることにも驚いていました。
そこで、言葉というのは、想像以上に自分自身の思い出等に深く結びついているのだと痛感した次第です。

それ以降は無難に終了していったのですが、終わってから冷静になった今、僕自身少し疑問に思うことが出てきました。

何故、親族や従兄の言葉では特に心が揺さぶられなかったのに、自分の言葉には簡単に揺り動かさせられたのでしょうか。

何が違うのかと考えたところ、大きな所では自分の中で似た経験をしているか、というのがあるかと思いました。

似た経験をしている=似た思い出を掘り出すことが出来るということにつながり、相手の言葉を受けた際に思い出せるということです。

なんとなくですが、年を重ねるにつれ、人は似た経験を積んでいくことになると思います。
それこそ学生時代は受験やクラス毎での人間関係の構築であったり、社会人であれば就職活動や社内外での重要な関係性の認識、世間へのポーズ等、似たような事柄に対して経験を重ねていくと思います。

こうして似た経験をしているからこそ、愚痴も盛り上がり共感出来る話も多く出てくるのだと思います。

このような関係性の仲であれば、他人の言葉に理解を示し、自分もこうだったと思い起すことが出来るのではないでしょうか。

逆に言えば、その人がユニークな経験を積んでいった場合、世間に対して理解・共感出来る範囲は狭くなってしまうと思います。

つまり、僕自身は最初に記載した通り、祖母とそこまで会えていなかったことから、親族や従兄と祖母がしてきたような経験を詰めていなかった為、彼らの言葉に共感がそこまで出来なかった。
また、僕自身の経験を元に言葉を考えたからこそ、シミュレーションだけで涙が出てきたということになると思います。

正直なところ、親族の葬儀等で余り泣けないというのは心のどこかで悪いことだと思っていましたが、ちゃんとひも解いてみれば根本的な原因があったのだと感じれた次第です。

ということで、同じような気持ちの人がいたら、これで少しでも楽になってもらえたら嬉しいです。

もしあなたが日常生活で感じている違和感や興味を僕が言葉で具現化出来ているのであれば、これからも続けていくモチベーションになりますのでサポートいただけますと幸いです。