一人演劇プロジェクト(8)〜太田省吾のこと〜

 テキストを読む期間なはずなのに、オンラインの演劇のこととかを考えちゃってます。もちろんそれがプロジェクトに繋がります。

 以前に「戯曲を楽しむように」と書きましたが、つまりオンライン演劇はなんらかの形で未完成だと面白いような気がするんです。そんなことを考えていると、太田省吾さんの『小町風伝』を思い出しました。実はまだ読んだことがないんですけど、冒頭にこんなことが書かれているのです。

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 「セリフは書いてあるけど、そのセリフは喋らないで」ということです。実際の戯曲ではこんな風に書かれています。

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 この見開き1ページですが、びっしりセリフが書かれているようで、実は舞台の上では一言も発せられることがないのです。これは興味深いです。つまり、「これを言っている感じの佇まいで」と言った感じでしょうか?

 演じる役者の「内面」をものすごく「詩的」に表現しているとても面白い戯曲だと思います。ト書きと「発せられるセリフ」以外にも、戯曲にはこのようにして、情報を盛り込むことができるのです。

 ちょっと話が逸れますが、この『小町風伝』のことを考えているといつも、著作権のことを思ってしまいます。この戯曲は「口に出さない」ことを冒頭で指示していますが、ほかの戯曲でこれをやったらどうでしょう?実際、劇作家はきっと口に出されることを想定して書いていますが、演出家がある意図を持って、そのセリフを外化させずに役者に沈黙のうちに処理させるという演出にしたら?それは、戯曲に書かれたことはある意味で守っていますが、はたから見れば守っていません。

 この際どうなるんでしょうね?とか、なんとか思ってしまいます。これはだいぶ演出家側の詭弁のような気がしますが、日本はそういう権利関係のことは、もっと議論しないといけないと思います。最近は、世界中で舞台映像の配信が行われています。劇場を開けることができないからです。外国では「劇場」単位で映像を配信できています。日本では「劇場」が製作した作品を「劇場」の名において配信することができません。権利関係が難しいからです。外国は劇場単位で、映像を配信することで演劇を製作し、観客に見せ、議論を生むための公共的な「場」としての劇場の機能を保とうとしているような気がします。それができない日本の公共劇場は、劇場を開けられない今、どんどん衰弱しているように思います。このようなパンデミックは、今回限りではありません。きっとまた起こります。その時に備えて、権利関係の議論を深めないといけないなあとか考えています。

 さて、話は太田省吾さんの話に戻ります。僕も今回、この手法を取ろうと思います。そして、テキストを公開しようと思います。

 劇場では身体から身体へ、膨大な情報が伝わります。しかし、画面ひとつ挟むだけでその情報のほとんどシャットアウトされてしまいます。だから、僕の演じた身体の情報を『小町風伝』のセリフのように、公開するのはオンライン演劇として面白いのではないかと思います。


 

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