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note小説:「電脳畑でつかまえて」(2/3 約3000字)


*この小説は、3話構成となっていますので、第1話をまだお読みでない方は、以下のリンク先からどうぞ。

* * *

オフィスに戻ると、僕と万里小路さん以外、もう誰もいなかった。
ガラス越しに万里小路さんの部屋を覗くと、彼女はちょうど肩にバッグを掛けて帰ろうとしていた。
 
少し迷ったけど、報告は明日でもいいかと思い直して、僕は自分のデスクに座り、パソコンを起動して、今日の議事録を作り始めた。
そのとき、彼女が足早に部屋を出て、お先にー! と僕に声をかけながら、エレベーターへ向かって歩いて行くのが視界に入った。
 
「あっ、お疲れ様です!」
僕はそう応じた後、しばらく液晶画面を見つめていたが、もうやめにした。やはり今日中に、一言だけ万里小路さんにお礼を言っておこう。
 
エレベーターホールに出てみたが、もう誰もいなかった。ようやく下へ降りると、彼女はエントランスゲートを抜けて、玄関の自動ドアから外に出るところだった。
 
僕が小走りに追いかけて行くと、ビルの前の、平和大通りの側道の街路樹の下に、紺色の高級車が停まっているのに気がついた。

紺色の高級車が停まっているのに気がついた

あっ!
運転席には、綺麗に髪を整えた、顎のがっしりした大人の男性が座っていた。万里小路さんに白い歯を見せて笑っている。
 
彼女は嬉しそうに軽く手を振っている。そして、ヒールを軽く鳴らしながら歩道を駆け抜け、向こう側の助手席に乗り込んで行った。
 
僕はオフィスに戻った。
パソコンの前に座ったが、もはや議事録の文章など1行たりとも浮かんでは来なかった。
 
車を運転していた男性は、30代の「デキル男」のオーラを発散していて、彼女にお似合いのタイプのように見えた。
 
そうか……。あれが万里小路さんの彼氏なのか……。
 
ふと眼の前に置いてあったスマホに眼が留まる。右手で握りしめると、たちまちポップアップ画面が登場した。
 
(失恋した時は、感情的になって自暴自棄な行動に走りやすくなります。ここはいったん落ち着いて、好きな趣味に没頭するなどして、他の事に関心を向けるといいでしょう)
 
何を言っていやがるんだ! そんな余裕ある訳ないだろうが!
万里小路さんとは付き合ってもいないし、そもそもコクってさえもいない。ただ一方的に憧れていただけなんだよっ!
 
僕はスマホを床に叩き付けてやろうかと思ったが、スマホの中のデータの事がふと気になって、さすがにそれは思いとどまった。いつの間にか、僕は冷静になっていたんだ。
 
翌朝のこと。
僕が出社した時、万里小路さんはまだ出社していなかった。
昼まで待っていたが姿が見えない。僕は秘書の伊藤さんに尋ねに行った。
「ああ、万里小路さんは体調不良でお休みだそうです」
 
伊藤さんは、事もなげにそう答えが、僕はますます疑心暗鬼に取り憑かれた。
いったいどうしたのだろう? 彼女に何かあったのだろうか……。
 
議事録をまとめて万里小路さんにメールし終わって、しばらくボーっとしていると、日葵さんが僕のデスクにやって来た。
 
「プレゼン資料の次は、何をするんですか?」
「ああ、プランAとBの両方の見積もりを出し直すから、まずは資料を整理して欲しいんだ。資料がどこの共有ファイルにあるか、わかるよね?」
「はい、わかります。じゃあ、さっそく取り掛かりますね!」
 
日葵さんは満面の笑顔を僕に見せながら、髪をさっと後ろにかき上げると、回れ右して自分のデスクに戻って行った。
 
オフィスでは髪を結わえたらどうだい? と言うべきなのか。それを迷い続けて、既に2週間も経っていた。セクハラの境界がどこからなのか、判断がつかなかったからだ。

いったいどうしたのだろう? 彼女に何かあったのだろうか……

休み明けの月曜日。
僕が出社した時には、万里小路さんはもうオフィスにいた。僕はガラス越しに彼女の顔を見て少しは安心したが、その表情は心なしか暗かった。 

オフィスのドアをノックしてみると、いつもの通り、どうぞ、と明るい声がした。
「議事録、メールしといたので確認お願いします」
「あら、ありがとう。で、どうだった?」

「こいつのお陰で、上手く行きました」
僕はメタリックシルバーのスマホを顔の横でひらひら振って見せた。 
「良かったわね。これで自信がついたでしょ?」

あれっ?
僕は、彼女の顔の右の頬骨の辺りが、心なしが黒ずんでいることに気づいた。 ファンデーションで上手く誤魔化してはいるが、僕にはわかる。

あれは打撲で出来た「青痣(あおあざ)」というやつに間違いなかった。 
ま、まさか……?
誰かに殴られたんじゃないだろうな……。

 プン、と警告音がした。怒りを感知すると「アンガーマネジメント・プログラム」が発動し、警告メッセージが表示されるんだ。 

(警告! さあ、今から6秒数えましょう。6,5,4……)

おせっかいな奴め、と僕は頭に来たので、カウントダウンを無視した。 

(警告! 今すぐこの場を離れましょう。トイレに行くか、部屋を出るのが効果的です)

 「ヒロトくん? どうかしたん?」
万里小路さんが、怪訝な顔をして僕を見つめている。 
マズい、どうしよう……。

だが、このまま見過ごすことは出来ない。僕は思い切って尋ねてみることにした。 
「あの、何かあったんですか?」
「えっ? ……別に、何もないわよ」
彼女が顔を伏せたので、ボブの前髪が右の頬の前にさっとかかった。

 しまった! やはり、そっとしておくべきだったか?

「じゃあ、議事録を見ていただいて、何かありましたらメールして下さい」
僕は彼女から眼をそらして、そう言い残すと素早く部屋を出た。 

デスクに戻ると、再び怒りがこみ上げて来る。
あれは絶対、彼氏に殴られた痕に違いない!
DV男だったんだ、あいつは……。

(警告! 冷静になって、この怒りを10点満点で点数化してみましょう) 

まったくウザイ奴だな!
でも今回は、8点くらいかな? いや、中学校の時に、冷蔵庫のプリンを兄貴に横取りされた時が9点だから、これは6点か? 

そこまで考えていたら、僕はコイツの術中にハマっていたことに気がついた。だが、そんな事はもうどうでもいい。

それより、万里小路さんがDV被害に逢っているのなら、ここは僕が一肌脱いで、何とかしてあげなければ……。 

(職場の人間関係において、相手のプライバシーへの深入りは禁物です)

 僕はとうとう我慢出来なくなって、「生体認識アプリ」をオフにして、スマホをデスクの上に放り投げた。

 コイツには所詮、「惻隠の情」とか「義を見てせざるは勇無き也」といった教えは理解できないんだな。ホント、役に立たないヤツ……。 

その時ふと、J・D・サリンジャーの小説「ライ麦畑でつかまえて」の中で、主人公ホールデンが呟く台詞(セリフ)が頭に浮かんで来たのだ。

 『僕のやる仕事はね、誰かが崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえてあげることなんだ……』 

……そう、お節介なことだし、馬鹿げていることはわかっている。けれど、見過ごせない事って、人生にはあるものなんだ。

J・D・サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」

                      (To be continued)
尚、表紙のイラストは 優谷美和(ゆうたにみわ)|note さんのものをお借りしました。誠に有難うございました。


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