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実は自分ごとだった不登校

 先日、子どもの高校受験が終わって備忘録を書いてみたら、関連記事で色々興味深い記事があったので拝読した。その中の一つで、不登校について、というものがあった。

 考えてみると、自分もかつてプチ不登校だった。高校時代、電車に揺られて学校に向かうのだが、降りるべき駅で降りたくない、降りられない。結局乗り過ごして、ずっと先の駅まで行ってしまった。
 そこから引き返し、遅刻して学校に行く場合もあれば、家に帰ってしまう場合もあった。ちょこちょことそんなことがあって、親が学校に呼び出されてしまった。
 学校に詫びを入れる親を見て、さすがに申し訳ないと思ったが、この件で親から怒られた記憶はない。そういうこともあるよな、という感じだった。
 その後は特に、プチ旅行をすることもなく学校に通っていた。
 そんなこともあって、自分の子どもがどうしても学校に行きたくないと言ったら、そんなこともあるよね、と受け入れてあげたいと思っている。

 実際、学校が嫌だ、と子どもが言うこともある。その場合は、とりあえず理由は聞いてみる。何も聞かずに受け入れるのとどちらが良いのかわからないけど、自分としては必要なコミュニケーションだと思っている。
 先生が嫌だ、と言われたら、友達には会ってきたら? とお薦めしてみる。それで大抵、渋々ながら出かけていく。
 でも、どうしても嫌だ、という時もある。そういう場合は、家で勉強させる。子どもも、その時は素直に自習している。それでも次の日には何のかんの言いながら学校へ行っている。えらいな、と思う。

 基本的に自分は、学校ってあまり好きじゃないんだろうと思う。くだらないことをうるさく言われて、好きになれるはずもなし。勉強は必要だと思うが、学校で行う必要もない。自分がプチ不登校だった高校生時代は、友人がいないわけではなかったが、関係は希薄で、友達に会いに学校へ行く、というほどのモチベーションを持てなかった。

 でも、人との交わりは大切だと思う。学校嫌いな自分も、40歳手前で夜間の大学院に通った。勉強が目的ではあったが、そこで出会った人たちとの交流は得難い体験だった。子どもにも、そんな体験をしてほしいと思う。でも、人との交わりが毒にしかならないような環境なら、そんな組織はさっさと離れるに限る。世界は広い。囚われていてはもったいない。

 とりとめもないが、不登校という「問題」を考える場合、不登校を引き起こした原因の方が「問題」で、不登校という現象自体は「対処」であろう。原因を親の努力で除いてあげられる場合もあれば、そうはいかない場合もある。原因を解決できないのであれば、「現在通っている学校」という「特定の組織」からは距離を置くのも必要だ。
 要は学力がつけば良いのである。高校までは学校が嫌いだった私が、大学では楽しく過ごしたという例もある。無理強いして、家庭まで「嫌いな組織」になるよりは、学校は諦め、学力をつけるための取り組みを家庭で一緒になって考える方が良いように思う。
 うん、これだな。子どもが不登校になったら、うちはとりあえずこのスタンスでいこう。

 蛇足ながら、ここで考慮に入れないといけないのは、愚かなことに、文部科学省は高校の調査書で半分以上の合格者を決めてしまうような仕組みを導入しようとしているということだ。大学入試改革では、その傾向をさらに強めるという。
 学校で「良い子」と認められる若者ばかりが通う大学って、面白いのかな?

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