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こんな社会に誰がした

昨日の話

僕が泊まっているホテルのすぐ近くで、路上生活をしていると見受けられる方が

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『夜ご飯代をわけてください』

と言ったプラカードを掲げて路上で座っていた

行為の良し悪しではなく、働けるのか働かないのか?の観点でもなく


ご飯代をわけて欲しい

と、この人は素直にお願いしているだけ

覗いてみると箱の中には10円玉が2つ入っていました

お金を入れた後、気になったので少し離れた場所で様子を見ていると、たくさんの人が目の前を通り過ぎたのに

お金を入れた人は一人もいなかった

何もしない理由を作ることは簡単です

「彼のためにならない」「お金がない」「興味がない」「自分の責任だ」「人からもらったお金で飯を食うな」

これらの言葉を思い浮かべる人は沢山います


下の写真はノースカロライナ州の教会に届いた封筒。中には20円(18セント)が入っていて次のようなメッセージが書かれていました

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私はホームレスなのでお金がありません。ほんの少しなのですが、精一杯の気持ちです。神の御加護を

本当の話なのかどうか?そんなことはどうでも良くて、お金の大小ではなく"心"の在り方の大切さを教えてくれます

今自分には何ができるのか?

大切なのは結果よりもそこではないかと思うわけです


去年、台風19号が日本に上陸した時

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避難してきた路上生活者の受け入れを拒否した行政が問題となったのですが、この報道を見た3割の人が"正しい判断"と評価したという記事がありました

残り7割の人も、いざ自分の横に路上生活者が来たらどう反応したのかわからないと思います


本当にこれでいいのでしょうか?

税金を納めていないとか、住民票が無いという理由で拒否をしてもいいのでしょうか?


先日こんな記事を書きました

コロナの脅威とか、致死率の高さとか、そんなことを言いたいのではなく

生きていい命と、死んでいい命

そんな命の線引きを本当にして良いのかって事なんです。


僕は大阪の西成区という地域で生まれました。

この地域には路上生活者が大変多く、我が家の玄関の屋根の下でも何度か勝手に眠っている人がいて、母親が朝に悲鳴をあげていたのを覚えています

そんな路上生活者の人たちに、これまでの人生を聞いて回ったことがあるのですが、そこには大手ゼネコンで勤めていた人もいるし、教員をしていた人もいます。

生涯で納めた税金なら、一般のサラリーマンよりも多い路上生活者だっているわけですよ

離婚や病気がきっかけで路上生活を余儀なくされた人もいるし、自ら進んでこの生き方をしている人もいます。

路上生活者にも色んな事情があって、望んでなった人もいれば、致し方なくその生き方をしている人もいる、ひとつ言えることは

僕たちも、いつなんどきその状況になるのかわからない

という事なんです

相互扶助と言うのは、仮に社会的に弱い立場になったとしても、それらも助けて皆が生きていけるように作られた人間の知恵

その時々の時代に応じた能力のある人間だけが生き残る仕組みであるならば、別に国家とか政府という枠組みはいらないわけです

それが今この国では急速に無くなっている

自己責任の一言で平気で切り捨ててしまう

子どもの貧困を平気で容認してしまう


そんな社会にいったい誰がした?




僕です

あなたです

残念ながらこれは事実

どれだけ自分には関係ないと言っても、必ず問題は繋がってくる

だから変えられるんです


もう一度あの路上に座っている人に出会えるならば、今度は横で一緒にご飯を食べようと思います

彼が嫌がらないならば笑


どんな立場の人にでも寄り添える勇気を持ちたい

僕はそう思う

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ひろのぶ

追伸

コロナで被害を受けているバングラデシュのスラムに住む皆さんへお米を届けています。

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