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「評価」をどうする? 【後篇】

「評価」の「影響力」の大きさを意識しよう

従来のように、これが、筆記試験というもので評価されるとなれば、評価を受ける側としては、そこに意識を集中します。そして、「その評価されるもの」「評価される力」を伸ばそうとそこに力を注ぎます。「これが出る」となればそこを覚えたり、その方法を身につけようとしたり努力します。そして、多くの人がそのこと自身を学びの中心であり本質であると捉えていくようになるでしょう。実際、現状がそのような状況であると感じられます。
例えば、求められている資質・能力として、「思考力・判断力・表現力」が取り上げられています。しかし、それを試し評価する試験において、思考力と言いながら、解き方や考え方の「暗記を促す」ような試験になっていないでしょうか。そこのところは充分に精査する必要があるものと思われます。

「評価」の難しいところ

この中で、未だに「総括的評価」こそが評価であるとかたくなに信じている人がいらっしゃいます。また、評価される側も、そのような評価をされることに「喜び」を感じている面があるのかもしれません。評価される側がそれこそが「評価」であると信じている人が多いとも感じられます。このような状況の中では「評価」の形成的な役割があまり期待できないと考えられます。

「大学入試」を強く意識した結果

未だに相対的評価の要素が入っている評価規準をもっているところ(学校)があります。また、そうでなくとも、個人的にそのようなお考えをお持ちの先生方も少なくないのかもしれません。そこには大学からどのようにみられているのかという、大学からの「評価」を気にされている面が大きいと感じられます。校内における成績評価(評定)にインフレが起き、当該学校の評価が信頼されなくなってしまうことを恐れているようです。つまり、(大学)入試へ向けて、「実質上の相対評価(評定)」が求められていると思っているようです。大学合格実績の総数を増やすことに意識がいっているということなのでしょうか。これは、生徒個人個人のことを考える教育において重要なことなのでしょうか。その結果として、それが生徒たちの「こころ」に影響を与えている可能性が高いのです(そのような学校では、現にそのような生徒の発言を聞きます)。

「目標―内容―方法―評価の一体化」

教科として、あるいはそれを超えて教科横断的なものを作成していく工夫がされているケース(学校)が見られるようになってきました。ぼく自身は、個人的にその場面場面における個々のルーブリックを作成してきましたが、話し合い議論しながら三年間を通じて考えられた教科(科目)「長期的ルーブリック」(あるいはさらに広い教科横断的、その学校教育全体の)ルーブリックを作成することは、その学校の教育目標と「指導と評価」の整合性が図られ、ほんとうの意味での「指導と評価の一体化」を目指すためには肝要なことです。まだ上記のような試みができない場合は、個人的に作成することもやむを得ませんが、作成したものを教科内の先生や心ある有志の中に広げてそれをもとに議論し、周りにじっくりと浸透させていくことが望ましいと考えています。そして、同じ教員仲間で、教科、学校、さらに校種、立場を超えて、教育全体のため、次の世代の幸せのために、少しでも貢献していけるように努めていきたいと考えています。もちろん、このように進めていくことにより、私たち自身の仕事に対するやる気と満足感も高まっていくことと思います。いっしょに学んでいきませんか。

追記

必要に応じて、令和元年6月発行の国立教育政策研究所『学習評価の在り方ハンドブック(高等学校編)』及びこの8月に出された『「指導と評価の一体化」のための学習評価に関する参考資料(高等学校編)』を参照できます。後者には、具体的な例が掲載されています。ただ、注意いただきたいのは、具体的なものをみてしまうとそこに縛られてしまう可能性があるということです。まずは学校内や個人で考えていくことが大切ではないかと考えます。

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