見出し画像

晩蝉<ひぐらし>

冬凪病院物忘れ外来 第二診察室


診察室は夏の昼光で明るい。冷房の風が空気を揺らしている。ひさしと妻の優美ゆみは若い女医の前に座っている。優美のために物忘れ外来に来ているのだ。冷房で寒い。
「認知症が進んでますね。薬を変えましょう」
色白で大柄な女医が小柄な優美に話しかける。恒の首元が冷たい。冷房機の音が鼓膜を激しく叩く。

優美は小さな手で器用に調理する。特におでんは絶品だ。四人家族の冬の楽しみとなっていた。子供が独立してからも恒のために味の工夫を続けた。恒が料理しようとしても譲らなかった。
「料理は楽しみなの。取り柄がない私の唯一の特技を奪わないで」
笑いながら優美は言うのだ。鼻歌を歌いながら調理する優美を恒は飽きずに見つめるのだった。

女医は恒を見つめながら早口で悪化対策などを話している。瞳の中に恒の姿が揺れている。優美は熱心に聞いている。恒の腹を重い汗がしたたる。尻が濡れて冷たい。
「もういいです! 優美さんの面倒は僕がみる! 帰ろう!」
突然恒は立ち上がる。椅子が音をたてる。油蝉あぶらぜみの大きな鳴き声が頭内をかき乱す。   

春寒工業株式会社第一工場 食堂


工場の照明は白い。埃っぼい空気が揺らいでいる。恒は勤め先に優美を初めて連れて来た。挨拶と優美への刺激のためだ。食堂は昼時で工員達の出入りが激しい。扉が開くたびに生暖かい空気が入る。
「今日で辞めるんだ。長い間ありがとう!」
恒は挨拶を繰り返す。ずっとこの職場だ。聞きなれた機械音だ。体が自動的に仕事の動きになる。

高校卒業翌年の春に恒と優美は結婚した。新婚旅行は夏に静かな温泉地に行った。古い質素な旅館に泊まった。朝方まだ暗い時間に部屋に大音響がこだました。晩蝉ひぐらしの鳴き交わしだった。
「夢みたいだ! 音に押し潰されそうだ! 怖くないか?」
温かく柔らかい優美が恒にしがみついた。恒は強く抱きしめた。体温で布団の中が温かくなった。二人は抱き合い続けた。

若い工員達は慌ただしく食事する。天井の巨大な扇風機が空気をかき回している。食器を片付ける音が響く。辺りを見回していた恒が年を取った工員に駆け寄る。
深谷保ふかややすしじゃないか! 息子の受験はどうだった?」
恒が男の肩を叩く。男は驚くが恒に笑顔を向ける。扇風機の音が恒の目の奥で激しく回転する。   

旅館冬紅葉ふゆもみじ食事処 夏菊


恒と優美は新婚旅行以来の山深い温泉地に来た。夏の夕風が木々を揺らしている。奮発して露天風呂付の部屋にした。夕食は個室だ。食前酒の香りが漂っている。
「深谷保は四十二歳で脳卒中で亡くなったな。冬に優美さんと葬式に行ったな」
恒は笑顔で食前酒を飲む。冷房が弱く暑い。虫の硬質な鳴き声が胸をざわつかせる。

ある秋優美が倒れた。卵巣嚢腫のうしゅだった。緊急手術が必要だった。優美の入院中恒は食事の味が分からなかった。仕事を休んで毎日病院に行った。秋風で体が震えた。紅葉が黒褐色に見えた。
「僕の体で使えるところがあれば使ってほしい。優美さんが生きられるなら体を切り刻んで欲しい」
恒は医者に訴えた。医者は苦笑いした。一か月程の入院で優美は良くなった。恒は二か月会社を休んだ。

恒に酔いが回り始めた。虫の声がうるさい。考えがまとまらない。優美を見つめる。女医に自分が認知症だと言われたのを思い出す。両目から涙が落ちる。
「僕の頭がおかしくて優美さんに迷惑かけている。一刻も早く施設に入れてほしい」
鼻をたらしながら恒は手を合わせる。優美は困惑の表情だ。恒は真顔に戻る。求婚時に流れていた流行歌を歌い出す。

客室 秋彼岸


恒は部屋に戻るとすぐに仰向けに寝る。露天風呂の湯気が揺れている。冷房で涼しい。優美は恒の掌をさわる。ひどく冷たい。浴衣のはだけた恒の白い胸に顔をつける。小さく呼吸の音がする。
「病気になっても私の心配ばかりして。恒さんは私のことばかり」
優美は目を閉じる。恒の匂いがする。恒が寝たまま優美の頭をなぜる。優美も恒の胸をなでる。

恒が若年性認知症と診断されてもう十年以上だ。経済的にはなんとかなるので仕事も九年前に辞めた。子供達から何度も施設に入れようと言われている。症状は次第に悪化している。もうすぐ優美のことも忘れそうだ。
「恒さんといることが私の生きること。恒さんがいない私は私ではないの」
子供達は優美の言葉が理解できない。分からなくても構わない。優美が自分で決めた生き方なのだから。

身綺麗にして優美は布団に入る。恒は軽くいびきをかいている。夜が深まった頃部屋を大音響が埋め尽くす。晩蝉の鳴き交わしだ。音が波になり部屋を揺らす。恒が怯えたように首を振る。
「怖くないわ。私がここにいる。不安なら夢と思って。夢でも私はずっと一緒だから」
冷たく硬い恒が優美に抱きつく。優美は強く抱き返す。布団の中はまだ冷たい。大音響が二人を夜に溶かして行く。