見出し画像

小舟に乗って


 もうすぐ、大阪で個展が始まる。今年になって、二回目の個展である。
 一回目は五月の下旬から六月にかけて、信濃橋画廊で。今回はエムイーエムギャラリーで。一年で二回も個展の機会を得ることは、有り難いことである。だらだらとした、怠け性の私は、発表する機会がなければ、到底、作品をつくることをしないだろう。展覧会のない時は、毎日、趣味ごとに精を出し、疲れると、ただただ無為に、時間を過ごしている。
 これで、作家と言えるのだろうかと、いつも自問自答している。一夜漬け作品を人前に晒す鈍感さだけは、充分にあるようだ。そして、その鈍感さは、今も衰えていない。もっと、社会に地域に働きかけて、世の中の中心で汗水を流さねばならぬ世代にもかかわらず、いまだに自分自身のことに、ひたすらかまけている。
 作品を発表し出した頃の、あの志はいったいどこに、今あるのだろうか。いつの間にか気づくべきことに気づかなくなり、箱の底に置いて、その上にぎゅうぎゅう「作品」なるものを、押し込んできたようだ。


 作品を一度つくれば、しばらくすると都合の良いところだけ覚えておいて、忘れていくものだ。一方でそうしなければ、次のものをつくることが、難しいということも、ある。作品のすべては、記憶の中に実はある。が、いつもそれを思い出していては、今日も、明日も、そして過去も無くなってしまう。だから足りない脳みそと身体は、忘れるように、自然に働いてくれるのである。
 それでも、私の執着心は諦めず、すべてを采配しようとする。狂気の沙汰としか言えないことを。
 毎日の生活を保ちながら、制作することができれば、「継続」という、宝が自然と身に、作品に備わってくる。それらは、憧れのまま、いよいよ、これから正念場に差しかかってくる、年齢となった。
 話を元に戻さなければならないだろう。いつも私は作品を、待っている。そして展覧会はその大切なきっかけとなっている。しかし、それだけではない。ある時に、季節の移り変わりに添って、また抗う時期にそれは訪れる。これは作品のテーマと動物的な自然の生き物である自分とが、偶然に触れ合った時である。この時の幸福と不安とが入り交じった、混沌とした時に冬眠からさめたように、ようやく私は、品と向き合うことができるようになる。     だから、プロの作家ではないことを知った。


 いつもスタートできるとは限らない。そんなあやふやな在り方で、今まで続けることが、よくできたものだ。もう少しコントロールできないものかと思うが、仕方がない。
 愚痴のようなことばかり、連ねて書いてきてしまっている。そんな状態を今回は受け入れて、作品をつくっていった。できるかどうか、これほど、緊張したことは今までになかった。「今までの調子でつくればいい」と、自分自身に何度も言い聞かせたが、効果は殆どない。私は自分が変化していることに、ようやく気付いたのである。
 
 今回の作品は、五月の作品の続編又は、違う角度からランプをかざしたようなものになった。タイトルは、「ミスト」いわんや「霧」だ。全篇にまたがって、霧がかかった場面が、延々と三十三分間続く。霧に覆われるシーンは、乱雑に現れ、繰り返される。
 一隻の小さな「小舟」を、水先案内役のように使ってみた。しかしその「小舟」は人物が身体を中に入れると、その重みで、殆ど進まない。霧の中で「静止」してしまう。静止した「小舟」は、霧の中に浮かんでいる。小舟の中の人物は、何かを観ているが「待つ」。水の流れが変わるまで。その間、人物は都合の良かったこと以外のことを、観ることになる。そんな要素の入った作品になった。
 「静止」は決して、黙っていることでも、動かないことでもなかった。人物の中では、混乱が生じる。「停止」との違いがそこにある。映像の手法を使ってつくった事と、内容との間には、なにがしの関係が生じた。十五本目の映像作品にして、ようやく霧の中へ分け入る旅に出ることになった。
 小舟に乗って。

©松井智惠        視覚の現場ー四季の綻び[第3号]
             醍醐書房 2009年11月19日発行
             2023年3月10日改訂

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?