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父との和解。自身との和解。   ー 村上春樹「猫を棄てる」感想文

#猫を棄てる感想文  

本の題名を見て、少し嫌な気分になった。
僕は、猫は好きだけど、父はあまり好きではない。 喉の奥に胃液の酸っぱさを感じた。

一番印象に残ったのは、ひとり息子が父親と和解をした場面。 長年の絶縁状態を埋め合わすやり取りを想像しながら考えた。

僕は和解できるだろうか。

息子は、父親へのネガティブな感情を乗り越え、病院に会いに行った。 

反論したいことや尊敬できない部分も含めて、相手を受け入れた。 

欲しかった言葉もなく、やっぱり存在は遠くに感じるのに、それでも思い出を語り合った。 

息子の勇気や優しさ、柔軟な強さがあって、父親との和解は成り立っている。 

和解はとても困難に思えた。 

僕は本音で話せないし、微笑ましい昔話などを持ちかけたりしない。 それはきっと少し複雑な生い立ちのせいだ。

僕には父といえる人が二人いる。       (義理の父とかではなくて) 

僕を認知した父と、僕を養育した父だ。

最初の父は、僕が彼を捜し当てた前年に亡くなっていた。六十歳だった。            彼の妻から写真を一枚と短い手紙をもらった。    写真の中では、スーツを着て、スタンドマイクの前に立ち、ビールがなみなみ注がれたジョッキを掲げたおじさんが満足気に笑っていた。              社長だったというから、忘年会か何かの時の写真だろう。 

手紙には、小振りだが均整のとれた文字が簡潔に並んでいた。 

「あなたのことは可哀想だとは思うが、もう関わらないでほしい」 

僕は指示に従ったので、それ以上のことは知らない。


僕が生まれて、母親の不倫は終焉を迎えた。  幼い頃、母親が病気で入院し、僕は一週間ほど母親の実家に預けられた。 心配していた故郷の兄姉達は結婚を勧めたが、母親は突っぱねていた。  しかし、数年後にお見合いをした。

 新幹線に乗り、知らない駅で新しく家族になる人たちと会った。 男性は何年か前に妻に先立たれ、二人の子供を連れていた。                                    僕たちはギクシャクと生活を始めた。

父の実子である兄と姉はよく叩かれていた。       それは僕にとって真新しい恐怖だった。              父と母親は激しく怒鳴り合うことが度々あった。 僕と姉は手をつないで家を飛び出したこともあった。 大声で泣きながら歩いても、行き場はなかった。 怒鳴り声が鎮まった家に戻るしかなかった。 兄も姉も遠くの大学に進学し、僕は高校生になった。父と母親との三人暮らしが始まった。

興奮した父と喧嘩になったことがある。     怒鳴っている父に口答えをしたら、台所に置いてあった使用済み天ぷら油の入った鍋を投げられた。 突っ掛かって父の顔を掴んだら、指を噛まれた。

早く家から出たかった。                                       中学生の時に拾ってきたハチワレのぶち猫が心の支えだった。


昔の事を根に持つ甘えた奴だと思われたでしょう。                     だけど足りてない。                                              幼い頃に注がれ満たされるはずのものが入ってない。 

父と子の和解の場面が浮かんでくる。                  最期の別れのとき、僕はどうするだろう。       「お父さん、ありがとう」って言うだろうか。  不倫の父に棄てられた僕。                                    養育の父に良くしてもらわないと割が合わない。                                    優しくしてくれ。
我儘を聞いてくれ。
お金や服や高価な物を与えてくれ……  おい!  まだ足りないぞ!あんたしかいないんだ!   まだ死ぬな!!

心の叫びは胸の奥から出てこない。       何も言えない。
和解なんてムリ。
また胃液がこみ上げてくる。
喉の酸っぱさが濃くなった。


僕にも「棄てられた体験」がある。
村上さんの父親のように「棄てられて戻る」という過酷な体験が幾度もあったわけではないけれど、人生のかなり序盤で、僕を認知した父から要らないものとされ、棄てられた。
僕は棄てられた後、「戻る」のではなくて、知らない誰かに拾われた。

拾われて育てられる負い目、引け目、遠慮を擦り込まれてきた。               威圧的な養育の父を、大きく感じていた。           あるいは僕が縮こまっていたのかも知れない。

僕は何度か猫を拾ってきた。
捨て猫は同じ境遇の仲間だった。        ぶち猫の滑らかな被毛を撫でながら、自分が言ってほしい言葉をつぶやいていた。

僕は棄てられ、拾われたからこそ、穏やかな暮らしを、心の平穏を求めている。        そして、もし棄てられた猫がいれば、僕は少しでも優しくできる人でありたい。


僕に和解ができるだろうか。

いつだったか、スーパーマーケットで偶然父と出会った。
会釈だけして買い物を続けていると、不意に僕の買い物かごに大きなステーキ肉が落ちてきた。 振り向くと、父が立っている。
「たまには肉でも食え」                                       そう言うと、さっさとレジに向かって行ってしまった。                    僕は何も言えなかった。           だけど、心の中では父に叫んでいた。

こんなくだらない出来事を、父は憶えているだろうか。 

いや、それは関係ないのかもしれない。 

和解は父との関係上の問題ではなく、自分自身との関係における課題のような気がしてきた。 

母親に見捨てられないように良い子にしていた。父に殴られないように黙っていた。      心の声を抑圧していたら、僕は知らないうちに自分自身と疎遠になっていて、すこし歪んだ大人になってしまった。

どうしたら自分自身と和解できるのだろう。

正解はわからないけれど、まずは抑圧していた心の声を出してみよう。安全そうな人を見つけて伝えてみよう。

心の声を尊重しながら他者との関わりを重ねることで、少しずつ自分との信頼関係が育っていけば、自身と和解できるのではないか。     そうしたら、話の通じない人、例えば父にも、話しかける勇気や気持ちを察する優しさ、相手の言動を受けとめる柔軟な強さを持てるようになるのではないか、と思った。


『猫を棄てる』を読み、感想文を書き、自分自身と向き合うことができました。        筆者の村上さんと感想文コンテストを企画した方々に感謝いたします。           本当にありがとうございます。      


書いている時、ずっと喉の奥で不愉快に引っ掛っていた胃液の酸っぱさが、不意に懐かしい記憶を呼び起こしました。

子どもの頃、風邪をひいて寝込んでいる時に作ってもらったホットレモンの味。         それは、酸っぱくて、温かくて、少し元気になれる思い出でした。

#村上春樹 #読書感想文

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