感想:舞台『WELCOME TO TAKARAZUKA ー雪と月と花とー』/『ピガール狂騒曲』 それ"も"宝塚 ー宝塚像、男役像とそのズレー

【2020年 月組 宝塚大劇場公演】

宝塚の公演の基本的なフォーマットとして、「芝居とショー(レビュー)の二本立て」がある。
ほとんどの場合2作には異なる演出家が立てられ、内容やテーマも個別につくられる、それぞれ独立した作品である。
とはいえ、1回の公演で続けて上演されるため、2作の間には連関が生じる。シリアスな芝居の後に明るく華やかなショーが上演されると、陰鬱なムードが覆ってカタルシスが生まれる、といった効果もその例といえる。

今回の月組公演は、日本舞踊を主軸とした和物レビューの『WELCOME TO TAKARAZUKA ー雪と月と花とー』および、19世紀から20世紀の変わり目にあるパリ・ムーランルージュを舞台とした芝居『ピガール狂騒曲』の二本立てだ。
レビュー・芝居ともに、「宝塚とは何か」を改めて表現し、打ち出す内容である。
レビューは「日本文化としての宝塚」を強調する
。東京オリンピックを意識した作品だったことに加え、第106期生の初舞台公演であることも相まって、タイトルをはじめとして「宝塚とは何か」が6場を通して示される。
芝居の『ピガール狂騒曲』も、宝塚への自己言及的な側面のある作品だ。舞台は宝塚歌劇がモチーフとして多用してきたパリ。『十二夜』を原案として男装をする女性を主人公とした本作では、宝塚の特徴のひとつである「男役」の性質にも触れている。

興味深かったのは、この2作の間で「宝塚像」とりわけ「男役像」が食い違っていることだった。
他のメディアでたびたび記号化されるように、「宝塚」は強固なキャラクター性を持つ。
しかし、宝塚が何を表現しているのか、何をもって宝塚が宝塚たりえるのかの定義は、宝塚をまなざす人々の間で統一されてはおらず、時代の変化や個々人の見方によって大きくぶれる。むしろその差異、ズレが宝塚の豊富な演目や独自の文化を成り立たせているようにも思う。

レビューの主題歌では「それが宝塚」というフレーズがリプライズされる。
この2作ではそれぞれ何が「宝塚」「男役」とされているかについて考えてみたい。

『WELCOME TO TAKARAZUKA ー雪と月と花とー』

日本の芸術・美術の特徴とされる「雪月花」をモチーフに、クラシック音楽と日本舞踊を組み合わせたレビュー。宝塚歌劇の特色のひとつである「洋楽にのせた日本舞踊」を打ち出す作品。

本作の演出を手がける植田紳爾は、2020年現在在団する宝塚歌劇の演出家で最もキャリアが長く、劇団の理事長を務めた時期もある。
彼の作品や機関誌等のインタビューで示す宝塚像は、立場上もあってか非常にコンサバティブで、良くも悪くもエンターテインメントの潮流から乖離した宝塚のガラパゴス性を示すものでもある。

このレビューはスペクタクルとしては美しい作品だと感じた。
明るく耳に残る主題歌(プロローグ)、初舞台生口上に続く「雪月花」それぞれのシーンでは、著名なクラシック楽曲を使用し、日本舞踊の素養がない観客も楽しめるよう演出も工夫されている。
鳥居および雪の女Sの着物の赤と雪の白のコントラストが鮮やかな3場では映像も巧く使われている。
4場は2枚の扇を用いての群舞が壮観で、物語仕立ての5場は動きがあり、フィナーレへの移行も鮮やかだった。

和物レビューの慣例として初舞台生口上はプロローグの後に置かれ、月組組長・光月るうが音頭を取り、各回ふたりの初舞台生が入団にあたっての初心表明を行う。
今回はCOVID-19の影響で公演が約半年遅れ、一時は興行再開の見通しも立たなかったことを踏まえた内容となっており、初舞台生への祝福と応援の意味合いが一際強いものだった。光月の威厳と温かみのある振る舞い・台詞回しも良かった。
一方で、今回に限らないが、年少の女性の集団が、観客や宝塚歌劇団に対して過剰に謙る内容の言葉を、大声を張り上げて読み上げるという口上の構図は権威主義的な面があり、個人的には苦手なところもある。
とりわけ本作は本来インバウンド向けを銘打った作品であり、名目上は国外を視野に入れた作品でこの構図を見せるつもりだったのか……と思う。 

初舞台生口上は宝塚を宝塚たらしめる儀式・形式のひとつである。
口上は劇団員が周囲の指導鞭撻を受ける「生徒」であることや、劇団の強固なピラミッドを示す。これは個々の団員がキャリアを重ね変化していく様子そのものを鑑賞対象とする宝塚の特性や、序列の固定といった独自の文化を裏付けるものだ。
しかし、劇団員を厳しく律する様子を美徳として見せることは現代の価値観や倫理観とは合致しないと思う。
今後の口上の在り方については一考の余地があるのではと感じた。

5場「花の巻」は植田によるコンサバティブな宝塚観が最も強く表れる場面である。
場面の主人公である「花の男」は桃色の着物を着た男役。場面冒頭の「花の男」は「女性の残像を微かに残した男役」とプログラムで記される。本場面は男役が自らの女性性を削ぎ落とすことで、一人前の男役となる様を描く。
「花の男」の鏡に映った姿である「鏡の男」は、「花の男」の目指すべき男役像でもある。「鏡の男」が鏡像を超えてひとりでに動き出し、それに従って「花の男」が男役としての自我を獲得する様子は、イメージの持つ強固な力を示していると感じた。
ひとりの人間の二側面の葛藤と統合を示す「花の男」と「鏡の男」のデュエットダンスは、同演出家による『風と共に去りぬ』の演出を彷彿とさせ、視覚的に面白かったし、上にも述べたように、「花の男」の着物の早替えからフィナーレにつながる転換は巧みだった。
しかし、自らの身体の女性性を捨象することで「男役」は「男役」たりうるという考え方は、現在の宝塚の「男役」の特性の説明として十分なものではないとも思う。
植田が念頭に置く「理想の男役像」は、生涯宝塚歌劇団員であり続け、劇団葬の遺影が光源氏のスチール写真(=舞台上の姿)であった春日野八千代であると思われる。春日野のほか、初めて地毛を短髪にして舞台上に立ち、後に本名を芸名に改名した水の江瀧子(松竹歌劇団)など、「男役のイデア」とされる人々は、私人としての自己=「本名の自分」を後景化し、「舞台上の自己」を貫くことでその地位を築き上げたといえる。
昭和初期〜中期社会の女性観の中で少女歌劇が「少女」を脱するにあたっては、男役が自らの女性性を排すること、年齢を重ねても退団して「女に戻ること」をせず、男役であり続けることが求められたのだと考える。
ただ、性別による役割分担も、私生活を犠牲にしてひとつの組織に身を捧げることも美徳として成り立たない現在においては、むしろ男女を二項対立のものとする図式に則らない、中間的な存在であることこそが、男役の特性であると説明できるのではないか。
上記のデュエットダンスについても、「花の男」が「鏡の男」に染まる必要はなく、両者がそのままの姿で舞台に留まることが現代的な表現だったのではないかと思う。

そして、この「男役」の中間性について言及しているのが、レビューに続く芝居『ピガール狂騒曲』である。

『ピガール狂騒曲』

1900年、新世紀を控えたパリが舞台。
一時は栄華を極めたが、近頃は落ち目のムーラン・ルージュ。その支配人シャルル・ジドレールは、再起を賭け、一大人気を得ている作家ヴィラールの妻、ガブリエルを主演として新作をつくろうと意気込む。
彼は折しもムーラン・ルージュに職を求めて駆け込んできた青年・ジャックに、ガブリエルを説得する仕事を任せる。
その頃、ガブリエルは離婚を前提とした別居に踏み込んでいた。実はヴィラールの作品はすべて彼女の手によるものだったのである。居丈高に振る舞う夫に辟易するガブリエルは、そのような強権性のないジャックに心惹かれ、彼を相手役とすることを条件に舞台に立つことを了承する。
ところが、ジャックにもまた秘密があった。彼は実は女性であり、その身を狙う女衒から逃れるために男装をしているのだった。
新作舞台『ラ・ヴィ・パリジェンヌ』の製作と、ジャックを巡る人間関係が交錯する様子をコメディタッチで描く作品。

本作は劇場の舞台裏を描く作品であり、ムーラン・ルージュに宝塚歌劇の存在を投影することで、宝塚をある種俯瞰的に捉える作品でもある。

トップスターが「男性を演じる女性」と「男性」の二役を演じる本作には、現代のジェンダー観から宝塚の仕組みを捉え直す描写がみられる。

この作品は、ガブリエルが強権的な夫ヴィラールの支配を拒んで彼の元を去るシーンから始まる。
世間の耳目を集める文学を書く能力を備えた女性が、性別を理由に軽んじられることを不条理と捉え、主体性を発揮する。
このシーンでは、家父長制や男尊女卑的価値観を明確に台詞として示した上でそれをはっきりと否定している。現在でも「男性に対し献身的な女性」を称揚する構図の作品が上演されることのある宝塚において、価値観の更新が窺える描写だと捉えた。

また、ヴィラールの抑圧から逃れたガブリエルが、目の前に現れたジャックに惹かれるくだりでは、宝塚の男役が観客を惹きつける理由の言語化が試みられている。
女性が演じる男性であるジャックは、マッチョイズムが内在する言動をとらず、女性を軽んじず、同じ目線に立って接することができる。
ジャックの容姿の美しさについても言及はあるが、彼の魅力の軸となるのは、しばしば女性を抑圧する「男らしさ」と距離を置いていることだ。
男性性が内包する権威性などのネガティブな面を排し、容姿や所作の美しさ、理想的な言動のみを抽出できることが、「女性が男性を演じる」ことの特性であるといえる。
男尊女卑への否定と同様、こうした「女性が演じる男性の魅力」についても、作中で明確に台詞によって表現されている。本作の演出家・原田諒の脚本は直截的な言葉が特徴であり、物語としては情緒に欠ける部分も多いものの、歌劇団側が発表するテキストで男役の特性や意義が具体的に表されていることはかなり珍しく、目新しく感じた。

シェイクスピア『十二夜』を原案とする本作では、ジャックと瓜二つの異母兄ヴィクトールが現れ、最終的にガブリエルはヴィクトールと、ジャックはシャルルと結ばれる。この結末はヘテロセクシュアルの規範を踏襲したものだが、作中で同性愛を揶揄するような台詞はなく、シャルルとカップルになるときもジャックは男性の姿のままである。結末ではジャックをつけ狙っていた女衒マルセルが、ヴィクトールの身体を検分して、彼が「男性であること」に驚き混乱するが、それに対してガブリエルが発する「どっちだっていいじゃない」という台詞も先鋭的だった。
本作はジャックが女性であることを消費しない。ジャックが女性の姿で登場するシーンはほとんどなく、特にシャルルとジャックの結末については、互いに「男性」の状態で築いた信頼が前提となっている。
1999年にバウホール公演で『十二夜』が上演された際は、男役が主演という宝塚のルールに則り、主役はオーシーノ(本作におけるシャルル)とされた。これに対し、『ピガール狂騒曲』では、トップスターが女性役を演じることが殊更に特別視されることなく、その中間性は魅力として積極的に言及されている。この点は宝塚特有の男役像と現代の価値観の合致を図っているものだと感じた。

とはいえ、すべての演者の身体が「女性」であることに依拠したシステムを構築し、男性・女性の記号的な特徴を過剰に表現する傾向にある宝塚は、トランスジェンダーなど男性・女性の二項対立に当てはまらない存在を捨象したり、その表象に問題を抱えることが多い。
本作でもMtFと思われる振付師ミシェルについてはステレオタイプな茶化しが見られた。
また、「どっちだっていいじゃない」としながらも、本作のオチはジャックが女言葉(「〜だわ」、「なのよ」など)を使うべきところを男言葉で発話する、というものになっており、中性性の肯定というテーマを転覆させてしまうものだった。舞台上での役割を明確化するために表層的な男性性・女性性を強調する必要があるとしても、これについては克服の余地があるのではと思う。

以上のような「男役像」の乖離に加え、レビュー第4場「月の巻」では個としての出演者を極限まで捨象したマスゲーム的群舞が繰り広げられる一方、芝居では登場人物が独立した個として存在し、ぶつかり合いながら関係を築く様子を見せているのも対照的だった。
これについても、舞台に上がる人数が多く、統制のとれた集団としての側面と、ひとりひとりに芸名がありバックボーンがありファンがつく、様々な個性の存在する場である側面それぞれの表れであり、宝塚の多面的な特性を再認識する構成だった。

なお、構図には先進的な面のみられる本作だが、作品としての緻密さには欠けていたように思う。
台詞が情緒に欠ける点については上記でも触れたが、特にガブリエルがヴィラールの作品を代筆していたことを一貫して「ゴーストライター」と表現している点は時代設定にそぐわず違和感があった。少々まわりくどくても別の表現をした方がガブリエルの抑圧も含め効果的に示せたのではと思う。
また、ジャックのシャルルへの思慕のきっかけとなる、シャルルの原点である人形劇の思い出を語るシーンなど、舞台の使い方が物足りなく見える場面も多かった。
本作はクリエイターの姿を描くことで宝塚を俯瞰的に捉えている点で同演出家による『ベルリン、わが愛』(2017年星組)と通じ、構図設定の意義深さや演出に粗が見られるところなど、様々な点がよく似ている。
『ベルリン〜』は、20世紀前半のドイツ映画界を舞台にすることで、第二次世界大戦期にプロパガンダを行っていたエンターテインメントとしての宝塚に自己言及していた(また、副次的ではあるがジョセフィン・ベーカーを登場させ、アフリカ系差別に触れてもいた)
宝塚歌劇はその性質を俯瞰的に捉える場に乏しく、「批判」「評論」の場でも、演出家や劇団員の技術的な巧拙への言及に終始する傾向がある。
戦時中の劇団についても、「戦局が激しくなったことに伴い一定期間興行ができなかった」という点がクロースアップされ、国家主導とはいえプロパガンダに加担していたことへの言及は避けられる。
この状況において、社会の潮流に応じて宝塚歌劇の構造を俯瞰的に捉えられる演出家の存在は貴重である。『ベルリン〜』においても本作においても、原田の作品は社会と宝塚のズレを埋める役割を担っている(だからこそ文化庁芸術祭などの劇団外の選考に出展される)と考える。

一方で、宝塚の重要な性質である、個々の生徒をいかに魅力的に見せるかという点については不十分であり、本作においても役の少なさや、観客の感情を動かす作用に欠ける直截的な台詞の数々は気になった。
それぞれの劇団員の個性や文脈をパッケージングし、娯楽として仕立て上げることも宝塚の面白さの一側面であり、特に団員個人の熱心なファンによって成り立っている宝塚においてこの点に不備があることは致命的である。
外向き・内向きの両輪のバランスの取れた演出が見たいとあらためて感じた公演でもあった。

本公演は強固な独自の文法を持つ宝塚がいかに社会の変化と折り合いをつけるかについての葛藤を体現していたと思う。
劇団理事も務めた松本悠里の退団や、宝塚音楽学校のルール変更も含め、宝塚のシステムそのものが変化しつつある様子が見て取れる。今後も作品の内外から、宝塚の在り方を追っていきたい。

以下、演者への感想や萌えポイントなど  

珠城りょうさんは芝居でのジャック・ヴィクトールの演じ分けが巧く、立ち居振る舞いや声音でその違いがはっきりとわかって見事だった。ジャックが女言葉を使うことへの違和感も、そのような台詞回しをしなくともジャックの内面は十分表現されていると感じたことが大きい。

美園さくらさんは知的で自立した女性の役が持ち味とマッチしていて素敵だった。ポスターで着ている衣装がとてもよく似合っている……

月城かなとさんの演技がとても好きで、レビュー・芝居ともに見入っていた。横暴な面と情熱的な面を併せ持つシャルルを立体的な人物として見せていたと思う。コメディシーンの客席の煽り方も小気味良かった。

暁千星さんは『カンパニー』同様ピルエットを見せるシーンがあって見事だった。ただ、インタビューなどを読んでいると、パブリックイメージと異なる役やダンスと関係のない役も見たいな……と思う。

芝居は月組の演技力の高さを実感するものだった。間合いの取り方や緩急のつけ方が巧みで、舞台の大筋にかかわらない小芝居まですべて観たくなる。

レビューの主題歌が覚えやすく耳に残っており、観劇後もしばしば頭の中で流れる。
何が起こるかわかっていてもチョンパには新鮮な感動がある。色とりどりの着物や、主題歌のポジティブなメッセージ・メロディなど、理屈を抜きにして人々を明るくさせるエネルギーがあるなと、この社会情勢の中で改めて感じた。

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