感想:映画『あのこは貴族』静かなプロテスト

【製作:日本  2021年公開】

東京・松濤の裕福な家庭で育った華子は、婚約していた恋人との破局を機に、結婚を目指してお見合いや会食を重ねる日々を送る。試行錯誤の果てに出会ったスマートな名家の息子、幸一郎に好感を持ち、婚約のプロセスも順調に進む。
しかし、幸一郎には周囲に存在を明かしていない親しい女性がいた。彼が大学で知り合った美紀は、富山出身で、猛勉強の末東京の私大に入学するも、経済的事情から中退。その後も東京で働き続けている。
生活する環境のまったく違う華子と美紀は、幸一郎の存在をきっかけに顔を合わせることになり、相手の中に自分にないものを感じ、互いに憧れを持つ。
その後、滞りなく結婚するものの、周囲からの重圧や自分の今後に釈然としない気持ちを持つ華子は、美紀達の姿を見て変わっていく。
現代の日本で、伝統的な女性像と対峙しながら生き、連帯する女性達を描いた作品。

本作は、日本の社会に根強く存在する女性に対する抑圧を浮き彫りにし、足掻きながらもその抑圧に抵抗する女性を肯定する作品である。
また、東京の山の手育ちの富裕層と地方出身者の間の隔絶と、その分断を超えた交流もテーマに据えられている。

この作品では、女性への抑圧や家父長制の再生産が批判される。
中でも華子と美紀を引き合わせる逸子の「日本には女性どうしを闘わせ、分断しようとする風潮がある。それに与したくない」という言葉や、幸一郎が華子との結婚を「規定の人生計画を遂行するための手段」とするくだりなどはかなり直截的だ。
一方で、華子や美紀をはじめとした登場人物の女性達は、そうした抑圧に真っ向から対抗するというよりは、自分の生き方を確実に変えることで社会の風潮に抗う。
彼女達は抑圧的な言動をとる人々に正面から言葉を尽くして反論することは行わない。ただ、生じた違和感をそのままにすることなく、自分をスポイルする環境から離れ、自立を志向して、起業や離婚などの手段をとる。
個人的には言語化や社会運動のムーブメントは必要なものだと考えているが、個々人の行動や生活の在り方の変化が「ムード」をつくり、徐々に社会を変えていく側面もある。実際に日本社会で生きる女性が自身に引きつけて考え、また実践しやすいのは、この映画で描かれているような「静かなプロテスト」だろう。
良くも悪くも日本的だが、それ故に実現可能性のある変化であると感じた。

異なる環境で育った人間に出会いづらいというのも現代社会の抱える問題点である。
主要登場人物はSNS(Facebook)を使用しているが、ここでのネットワークは現実の人間関係を反映したものだ。身近な他人と自分の生活の比較を通して既存の価値観を強化する、もしくは焦燥感を煽ることはあるが、世界を広げることには寄与していない。Facebookはとりわけその性質が強いが、TwitterやInstagramなどの他メディアも似た趣味や価値観の人が集まるように設計されているため、傾向としては同じだと考えられる。
インターネットや交通網の整備で物理的な可動範囲が広がっても、「違う世界」の人間に出会う機会はそれほど多くない。
華子と美紀は幸一郎という接点によって偶然知り合うものの、趣味が合う訳でもなく、環境や価値観の違いは歴然として存在する。
作中でふたりが直接顔を合わせるのは2回だけであり、抑圧への抵抗の方法も異なる。
一方で、作中で美紀が指摘する通り、親や周囲の事業や資産を引き継ぎ、環境を維持するために子どもを産む役割を期待される点で、「東京」と「地方」は共通している。
彼女達は環境の違いを認識する一方で、自分達を苦しめる抑圧の正体が同じであることを見抜いており、異なる方法でそれに抗う仲間にエールを送る。華子がすれ違った自転車の二人乗りをする若い女性に手を振るシーンはそれを象徴する。
前述の逸子の言葉通り、ここでは社会構造の問題を覆い隠すようなステレオタイプである「女性どうしのライバル意識」が否定され、華子や美紀、逸子、里英といった女性達は、抑圧に対抗する同志として描かれる。
特に華子と逸子、美紀と里英のそれぞれのコンビが親しくコミュニケーションをとる姿が本作では強調される。

最初はどこに行くにもタクシーを使っていた華子が自分で歩くようになり、最後は車を運転する成長の流れは鮮やかだった。
幸一郎との関係も、結婚にまつわる夢物語が剥がれていく一方で、「似た環境で育った者どうしの連帯」は残るというところに現実味があった。幸一郎と美紀の10年にわたる関係と、その後に本当に交流がなくなった辺りも生々しい。
幸一郎は大概不誠実な人物なのだが、現実にはこのような愛憎のどちらかに振り切れない関係がほとんどで、だからこそそれをどう克服していくのかが重要なのだろうと思う。
また、その名の通り環境が促す進路から逸脱する逸子の存在も印象的だった。彼女は華子・美紀よりもラディカルであり、作中での役割も併せて、このように先陣を切る人の存在の重要性を再確認した。

メインプロットでは主人公の華子に焦点が当たるが、美紀の作中での変化も印象深かった。
美紀は地元・富山の旧弊的な風潮に辟易しており、批判を口にすることも多い。
一方で、内心では自分を構成する不可欠な要素として富山を捉えてもいる。幸一郎との別れの際にあえて地元のお土産を渡すのがその表れだ。
その後彼女は同郷の里英と富山のブランディングやイベント企画を行う企業を東京に立ち上げる。これは生まれ育った土地を肯定する一方で、都市と地元をつなげることで、ゆるやかにその風潮の更新を志向する事業であり、彼女にとっては自身のコンプレックスを乗り越える行為でもある。
当初、帰省時に大学の入学式で撮った写真を直視できなかった美紀は、起業後にはその写真を自室に飾っている。自己の経験やコンプレックスを昇華できた点で、彼女も確かに前進している。

ただ、本作の富裕層の描写は、全体的に「想像上の富裕層」という印象を受けた。最も現実味がないと感じたのは、冒頭の華子一家の会食での会話である。
日本における階級構造の厄介なところは、制度上は階級が存在しないことになっているため、目を伏せることが可能であることに他ならない。裕福な育ちの人々は、「持たざる者」を蔑むというよりも、むしろ「持っていること」が当然だと思っていて、「持たざる者」は視界に入っていないのだ(人は大学に進学して当たり前だと思っているとか、貧困を自己責任と考える等がその表れである)
本作のように「野蛮」という言葉を使う、ユニクロを小馬鹿にする、といったわかりやすい揶揄は恐らくほぼないと思う。(個人的にリアルだと思うのは所持しているユニクロ製品がヒートテックの肌着とライトダウンジャケットだけで他はだいたいオンワード、という世界)
頻出する「階層」「階級」という表現も同様で、その構造を認識している時点で状況を俯瞰的にまなざしているため、まだ分断の克服への余地がある。本当に内面化している人は階級構造に言及することもないだろう(吉住渉『ママレード・ボーイ』シリーズが、そういった東京の山の手の感覚が如実に反映されている作品だと思う)
幸一郎との結婚に際して興信所で華子の身辺を探ったというくだりも、周知の事実だったとしても本人に直接言うことはないのではと思う。
現実世界にいかに波及させるか、ということが主眼となる作品なだけに、華子の環境まわりの描写は過剰な印象があって気になった。
その中で門脇麦の演技は自然で巧みだったと思う(身内にはくだけて話すが、パブリックな場での立ち居振る舞いが非常にしっかりしている等)。また、水原希子の「場の雰囲気に合わせられるが、ややくだけている」という塩梅も良くて、このふたりの演技には見応えがあった。

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