感想:映画『リトル・ダンサー』 男らしさと貧困の壁

【製作:イギリス 2000年公開】
1984年、イギリスの炭鉱町ダーラムは、労働者達のストライキの最中にあった。
11歳のビリーは、スト破りと闘う父と兄の下、自らもたくましくなれとボクシングを習わされている。しかし、本人は自らを取り巻くタフな価値観に馴染めずにいた。
そんな中、彼の通うボクシング教室の隣でバレエ教室が開講されることになる。
ビリーはバレエに惹かれ、女子に混ざって踊りを習い始める。
男らしさを重視する父にひどく叱られながらも、こっそりと練習を続けるビリーは、次第に類まれなダンスの才能を見せるようになる。
指導者のウィルキンソンは、彼をロイヤルバレエスクールに進学させてはと考えるが、それには様々な壁があった。

本作の原題は『ビリー・エリオット』で、同名でミュージカル化もされている。ジェンダー規範と貧困を乗り越え、労働者階級で育った少年がバレエダンサーとなるまでを描いた作品だ。
構成としては、前半でビリーが「男らしさ」と対峙しながら踊ることに喜びと活路を見出すまでを描き、後半ではビリーがダンスを進路にするにあたって、家族の理解や費用の工面の描写から、彼を取り巻く貧困に焦点が当てられる。
ラストシーンも含め、本作は貧困が子どもの進路を阻む状況や、物理的な困窮の前に踊りや音楽といった芸術は意味をなすのかという問いに重点が置かれていたように思う。前半で家族達から提示される「男らしく、強くあらねばならない」という価値観が、貧困による選択肢の少なさによるものと推測されるのもその理由である。

ストライキによって炭鉱労働者の収入がなくなり、先の見えないダーラムの様子はざらついた質感の画面で映される。
ストライキへの姿勢をめぐる父と兄の喧嘩や、労働者達とスト破りとの攻防は、光量の調整や服装などの色によって陰影が濃くなるよう演出されている。
一方、ウィルキンソンによるバレエ教室からビリーが受験に赴いたロイヤルバレエスクールまで、バレエにまつわる描写は画面が明るい傾向にある。労働者達が黒い服を着る中、ビリーやウィルキンソンは別の色味の服を着ているという構図もみられ、ダーラムにおけるストライキを軸とした日常やそこに満ちる陰鬱なムードと、バレエや芸術のもたらす喜びが対置されている。バレエに関連するショットには平面的につくられたものも多くみられ、肉体的・物理的な現実とのコントラストが強調される。

本作においてストライキや貧困といった現実とバレエや芸術の世界は対置されていても対立関係にはない。
ビリーは労働者の町でフレッド・アステアのミュージカルを彷彿とさせるダンスを踊り、その表現は強硬だった父や兄、周囲の人々の考えを変えることになる。バレエの他にも、ビリーの兄トニーは音楽を聴くことを日々の癒しとしていることが窺え、芸術が環境を問わず、あらゆる人間に対して普遍的に活力となりうることが示される。
しかし、芸術の力と同様かそれ以上に、困窮の様子はシビアに描かれる。
ダーラムを出たことのない父や、労働者の中でも攻撃的な姿勢をとるトニーは、炭鉱で働くことしか選択肢が与えられなかった、他の選択肢があることを知る環境になかった人物である。それは「俺たちの人生は終わりだが、ビリーには未来がある」という台詞でも示唆される。また、だからこそ彼らは自分の知る世界で身を立てるために必要とされる「男らしさ」にこだわるのだと思われる。
終盤ではロイヤルバレエスクールへの入学に際してひとりバスに乗るビリーと、ストライキが終わり、これまで通りエレベーターで炭鉱に潜る父とトニーの姿が対比される。

バレエ教室を開講するウィルキンソンは中流階級の「夫人」であり、乗用車を所有し、自宅の軒先では薔薇が咲いている。ロイヤルバレエスクールの他の受験生と比べても、バレエを職業とするためには一定の金銭的余裕が必要であること、ビリーの家庭がそこに達していないことは明らかだ。
故人の思い出の品であるピアノを壊して焚き木にしなければ冬を越せないような状況と、アカデミックな芸術の乖離が印象的だった。
ビリーの表現に感化された父は、スト破りに与して「出勤」する、すなわち仲間を裏切ってでも彼の受験に必要な費用を捻出しようとし、同僚の労働者達もカンパなどで協力する。また、本作はバレエダンサーとして成功したビリーの公演を父と兄が鑑賞するシーンで終わり、断絶をビリーの踊りが超える筋立てである。これは芸術の最も理想的な在り方のひとつであると同時に、本作において最も「非現実的」な描写でもある。

この物語においてはビリーが観客に対して説得力のある踊りを見せる必要がある。ビリー役にはダンススキルのある俳優が求められるため、必然的に幼少期からダンスを習う環境にあった子役という、ビリーとはかけ離れた存在が選ばれることになる。
「実際に貧困を経験していなければその環境にある者を演じることができない」ということはありえない。しかし、これは幼い頃からの鍛錬が必要とされるアート・パフォーマンスが抱えるジレンマだといえると思う。
既存の価値観の再生産を越えて、文化や芸術を意義のあるものとして残していく上で、それらを享受・選択肢しうる環境をいかに広げるかという点は、今後も向き合うべき課題だと感じた。


ジェンダー描写の面では、ビリーの友人マイケルの存在を通して、マッチョイズムに馴染めないことによる生きづらさや、マイノリティを取り巻く偏見を丁寧に描いていた。

また、ウィルキンソンは一度ビリーを打つものの、全体としては「バレエは自己表現の手段であり、技術はそのための土台/ツール」という姿勢で指導を行っており、スパルタ指導の称揚とは距離を置いていて、バランスが取れていたと感じた。後半のテーマを思えば納得はいくのだが、それでもラストシーンの客席にはウィルキンソンもいて欲しかったと個人的には思う。

踊りを通じてビリーが感じる喜びや解放感が映像に反映されており、練習を重ねてピルエットに成功したシーンの高揚感や、窮屈な暮らしから一時解き放たれてブギを踊るシーンは見ていてとても楽しかった。踊りの力が確立されていることで、後半の環境との葛藤が際立つこともあり、巧くできた作品だと思う。

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